Column ラオス

コラム6 「近代化へと動き出した国と黎明期の映画界 後編」

長島文雄 (ラオス)

コラム①新たなメディアの課題についてはこちらから
コラム②ラオスの映画産業についてはこちらから
コラム③あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在前編はこちらから
コラム④あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在後編はこちらから
コラム⑤近代化へと動き出した国と黎明期の映画界 前編

さて、ラオスの言語はラオ語(Lao)です。このラオ語は、基本的にタイのイサーン(Isan)(=タイ東北部)で話されている方言と同じなのです。また、ラオス領内では電波が届いていますので、タイのTV番組を観ることができます。そして、市場では、(海賊版が多いですが)タイの映画やTVドラマのDVD等も売られています。もともとラオ語はタイ語と親戚なのですが、タイのTVを観て育ったラオスの人たちはタイ語を解すことができるのです。ある意味、このこともラオスの映画界に与えた影響は大きかったと言えます。つまり、ラオス国内で娯楽作品が作られなくても、タイのものをいくらでも観ることができたということです。どこかの国のように、外国のTV番組を観ると捕まってしまうというようなことはありませんでした。

 

ラオスの映画界なのですが、今まさに活動を開始したと言っても過言ではありません。というのは社会主義の国の常で、長い間、自由な表現をするのが困難だったのです。政府による検閲があり、映画製作には大きな制限が加えられていました。そのため、ラオスの映画界は、無きに等しいものだったのです。

しかし、時代の流れなのでしょうか?ようやく、その映画界が動き出したのです。まずは、隣国との共同製作からという感じなのでしょう、ここ数年タイとの合作作品がしばしば作られるようになりました。その代表作として、タイの青年とラオスの女性の淡いラブ・ストーリーを描いた「サバーイ・ディー」(Sabai Dee)シリーズの三部作は有名です。「グッド・モーニング・ルアン・プラバン」(Good Morning Luang Prabang)<2008年>、「フロム・パクセー・ウィズ・ラブ」(From Pakse with Love)<2010年>、「ラオ・ウェディング」(Lao Wedding)<2011年>の三本で、主演男優にはそれぞれタイの人気男優であるアナンダー・エバリンハム(Ananda Everingham)、レイ・マクドナルド(Ray Macdonald)、パコーン・チャトボリラック(Pakorn Chatborirak)を配しています。一方、主演女優は、ラオスの国民的人気女優のカムリー・パンラウォン(Khamlek Pallawong)が三作とも務めていました。これらの作品は、英語字幕は付いていませんがタイでDVDが発売されています。

オーストラリア、タイ、ラオス合作の「ロケット」(The Rocket)<2013年>という作品も記憶に残る作品です。2013年の「第11回バンコク世界映画祭」(World Film Festival of Bangkok)でも上映されました。これはラオスに住む少数民族のアカ族の社会を舞台に描いたものなのですが、少数民族問題、ダム問題、ベトナム戦争当時の未処理爆発物問題、汚職問題?、ロケット祭りなどなどが、とても愉快に描かれています。作中で強烈な個性を発揮していた主人公の祖母役を演じたラオス出身の女優ブンシー・インディー(Bunsri Yindi)は、現在ではタイの映画界で活躍しています。この作品の英語字幕付きDVDは、アメリカで発売されています。

残念ながら、日本でラオスの映画を観ることは非常に難しいです。ラオスの作品そのものが、ほとんどないということも理由の一つではありますが。最後に、ラオスの作品ではないですが、比較的手軽に観ることができるラオスを舞台にした作品を紹介しましょう。

まずは、「エア・アメリカ(Air America)」<1990年/アメリカ作品>です。これは、ロジャー・スポティスウッド(Roger Spottiswoode)監督によるベトナム戦争の裏側を描いた作品です。主演はメル・ギブソン(Mel Gibson)。ラオスに実在した、エア・アメリカ(Air America)という航空会社で働く荒くれパイロットたちの物語です。教科書では決して扱われない近代史の裏側という硬派な題材を扱っているにもかかわらず、ややコメディー調の軟らかいタッチで描かれていました。撮影は、タイ、アメリカ、イギリスで行われたとのことです。

実は、日本にもラオスと関係がある?作品があるのです。それは、金子修介監督の「卒業旅行 ニホンから来ました」<1993年>です。織田裕二演じる就職も決まった男子大学生が、卒業旅行で東南アジアにある小さな国のチトワン国へ一人で卒業旅行にやって来て、そこで超人気歌手になってしまうというコメディーです。作中では舞台がチトワン国となっていますが、明らかに?ラオスをモデルにしています。

さて、まだまだ始動したばかりのラオス映画界ですが、国と共に今後どのように成長していくかが楽しみです。

 

コラム5 「近代化へと動き出した国と黎明期の映画界 前編」

長島文雄 (ラオス)

コラム①新たなメディアの課題についてはこちらから
コラム②ラオスの映画産業についてはこちらから
コラム③あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在前編はこちらから
コラム④あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在後編はこちらから

東南アジア最後の秘境という人もいる「ラオス」。正式名称は「ラオス人民民主共和国(Lao People’s Democratic Republic)」といいます。東西をベトナムとタイに挟まれ、北は中華人民共和国、南はカンボジアと国境を接している、海のない南北に細長い国土を持つ内陸国です。

ラオスの歴史は古いのですが、1800年代の末にはフランスの植民地となります。そして、近代史の中では、ベトナム戦争(1960~75年)の際、北ベトナム側の輸送路であるホーチミン・ルートとして領内が利用されました。そのため、ベトナム戦争終了後も各政治勢力の暗躍の場となり、長い間表舞台に登場することができなかったのです。

ラオスは社会主義国であったこともあり、外国への門戸を大きくは開けていませんでした。そして、国民に対しても自由な言論に制限を加えたのです。そのことが、ラオスの映画界に大きな影響を与えることになりました。

また、ラオスにとって外国へ輸出できるような産業は、木材と(水力発電による)電気だけだとも言われています。国土は山がちで平地がないため、隣国とは違い農業が発展しないのです。そのために、東南アジアの最貧国とも言われていました。そんなラオスも、ようやく近代化へと動き始めたのです。

日本における「ラオス」という国の知名度の低さからも分かるように、少し前までは日本人のラオスへの入国者数は年間300人程度と言われていました。それが、今では4万2千人以上(2012年/日本旅行業協会による)です。これは、ビザ取得条件の緩和の影響が大きいと思われます。以前は、観光ビザの所得に多くの時間がかかりました。外国からの旅行者たちは、タイ側からメコン川(Khong River)を渡ってラオスの首都ビエンチャン(Vientien)へと入国するために、メコン川沿いにあるタイのノーンカーイ(Nong Khai)の町へとやって来ます。この町で旅行会社へ行き、ラオスのビザ取得を申し込むのです。旅行会社はビザの申請書をバンコクにあるラオスの公館へ持ち込み、ビザ発給後にノーンカーイへと持ち帰ります。その間、所要日数は約一週間。旅人たちは、ノーンカーイとその近郊でビザが発給されるのをのんびりと待っていました(現在では、ラオスの国境に直接行けば、その場でビザを取得することができます)。

そして、ようやくビエンチャンへ入国できたのはいいのですが、外国人がビエンチャンの外へ出るのには条件があったのです。その条件とは、「ラオス人が同行する」ことでした。ライセンスを持ったガイドである必要はありません。一般市民でもよかったのです。

同行してくれるラオス人を見つけいざ地方へ出発と思っても、そう簡単にはいきませんでした。なにせ、当時の国土の南北を縦断する幹線道路は、未舗装だったのです。ラテライトの地質ですので、雨が降ると地面はドロドロ。それが渇くとコチコチに固まったでこぼこ道ができあがります。国土に沿って南北に流れる大河メコン川のボートを利用する手もありましたが、乾季は水量が少なくボートが思うように運航できず、雨季は雨季で水量が多過ぎて危険を伴うというありさまでした。これらのことは、遠い昔のことではありません。つい最近までこうだったのです。

 

 

 

コラム4あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在後編

ソン・オク・スティポヌ (ラオス)

コラム①新たなメディアの課題についてはこちらから
コラム②ラオスの映画産業についてはこちらから
コラム③あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在前編はこちらから

『レッド・ロータス』製作の経験を通して、私はラオ・シネマトグラフィー国営企業から離れて活動した方が成功するであろうと感じた。本当にやりたいことをやる唯一の道は、インディペンデントになることだと直感したのである。そこで私は1989年に、自分で小さなビデオ製作会社を設立するという希望のもと、ラオ・シネマトグラフィー国営企業を離れた。しかし、資金の問題は消えず、私は映画史上ユニークと言えることを実行した。ビエンチャンのサイロム街にパン屋を開いたのである。私の映画への愛情は本物だったが、独立して映画を製作するには資金を稼がなくてはならなかったのである。

幸運なことに、妻と経営するパン屋は繁盛し、5年ほど一生懸命働いた結果、プロ仕様のビデオカメラを購入し「ラオ・インター・アーツ」という自主製作会社をビエンチャンに構えるだけの資金がそろった。しかし、最初の作品に取り組むにはまだ外部の助けが必要であった。幸いにも、その助けはすぐに得られた。

フォランコフォニーでは、仏語圏46ヵ国において、「運動」をテーマとした作品の脚本コンテストを行っていた。私は題材として、ボケオ郡ホーアクサイ地方にあるバン・ナン・チャン村に住むレネテヌ民族を選んだ。レネテヌの人々は山の一部を切り倒し焼き払いながら1~2年ごとに移動を続け、最終的にもと居た場所に戻る、という生活の周期を持っているが、その動きはこの民族の若い男たちが行う伝統的なゲームにおいて木製の独楽が周期的に動かされるのと似ているのである。幸運にも、私の応募した脚本は6位、つまり受賞できる最下位であったが、4万フラン(16,000米ドル)を獲得した。この賞金で、私は26分のUマチックSPドキュメンタリー作品『レネテヌの独楽』を1993年に製作した。

 

私の製作クルーはレネテヌ民族と10日間を過ごしたが、最初の3日間はレネテヌ民の信頼を得ることだけに費やした。贈り物として持っていったフランス製の薬が、レネテヌ民の了解を得るのに役立った。結局のところ、撮影は精霊をなだめる儀式を行った後に開始された。毎日撮影したものをレネテヌ民族に見せたが、彼らの多くは自分の姿をテレビモニターに見ることは初めてであった。

 

完成されたビデオ作品は、1994年7月パリで行われるフランス語圏文化祭での出品作として選ばれ、殊勲賞を受賞、これは私の製作会社にも、ラオス映画にとっても、非常に名誉なことであった。独立系として良いドキュメンタリーを発表していこうという自分の探究心のもとに前進していく自信にもなった。その後『レネテヌの独楽』は山形国際ドキュメンタリー映画祭’95の「アジア百花繚乱」部門で上映された。

私の一番新しいビデオ作品(1997年3月に完成)は、ラオスの伝統的舞踏についての短い文化ドキュメンタリー『Lao Lamvong』である。第1回東南アジア映画祭ではコンペティション外で上映され、評判も良かったが、私の中には『レッド・ロータス』の成功に続く2本目の劇映画を作りたいという、いわば避けがたい思いがあった。

私は、友人間のあらゆる状況においての関係をテーマに、120ページにわたる脚本を書き終えた。特に、若い人と年配の人という人生のちがった状況の中で、お互いがどう相手のことを考えているのか、ということに焦点を当てている。仮題は『Given Time(与えられた時間)』(“Kala Vela”)という。

この作品を実現させるのはとても大変なのである。ラオス内の市場は狭く、国内配給だけで元手をとるということは不可能である。政府の援助または外国からの投資など、外部からの助けが必要となる。しかし、政府による映画製作というのは通常年に1~2本と限られていて、政府会議や州の祭事が題材になるだけである。近年、ラオス政府は映画製作を援助する意向を示したが、国がもっと緊急な問題を抱えている限りは、ラオス映画というのは数人のラオス人映画監督の頭に描かれる夢でしかない。ラオスよりも豊かな国々が映画産業を持続できないとしたら、私たちはどうやってラオス映画の存在を信じることができようか。

ラオス映画というものは、本当に存在はしていない。私の他に、独立系の映画作家がいないからだ。「ラオ・インター・アーツ」の9人は、全員が情報文化省を辞めて会社の設立を手助けしてくれた。9人ともブルガリア、ロシア、チェコスロヴァキアなど海外での教育を受けている。私たちが唯一望むことは、共同製作、つまり外国の資本100%とラオスの人材100%とで、ラオス映画界がこの職人たちが活躍する場を、少なくともほんの少しの間、よりよい日々が訪れるまでの間、提供してくれることである。

私たちは、ささやかな努力とともに、国内におけるラオス映画文化の育成の手助けになるよう願っている。インディペンデントで、国としてのラオス、人々、古くからの文化と芸術などの要素を取り込んだラオス映画である。そしてさらに私が望むのは、近年のアジア映画賞賛に、ラオス映画が含まれるようになることである。

さて、そろそろパン屋にもどって、資金集めに精を出さなくては!

編集者注:

協力:山形国際ドキュメンタリー映画祭 http://www.yidff.jp/
ラオス文化庁 映画局

 

 

コラム③あるアジア映画の始まり――ラオス、過去と現在前編

ソン・オク・スティポヌ (ラオス)

コラム①新たなメディアの課題についてはこちらから
コラム②ラオスの映画産業についてはこちらから

今日、アジア映画が世界中で祝福されている。しかし、中国、日本そして台湾といったような限られた国々しか国際的注目を浴びていないという事実は忘れられがちのようだ。それ以外の国々―私の国ラオスを含めて―では、古くからの豊かなビジュアル文化がありながらも、経済的理由などから、自国の映画を築き上げようと闘っている真只中なのである。

ラオスは、小さく、陸に囲まれた多民族国家である。450万人のラオス人の社会的、文化的そして経済的発展は、長い植民地支配と、30年に渡るインドシナ戦争によって阻まれてきた。不運なことに、ラオス映画に関する資料はほとんど存在しない。正確に誰がいつ何をした、ということに関しては、大方が謎に包まれたままである。いままでに12本の劇映画が作られたということは分かっているのだが、残念ながら今日残っているのはそのうちの3作品だけである。最も古いドキュメンタリー映画は1956年に作られ、かつての王室一家の貴重なフッテージが挿入されている。劇映画の第1作目は1960年に撮影され、『Fate of the Girl(少女の運命)』という題がつけられた。国立映画アーカイヴには約9千リールが保管されており、その中にはラオス、ヴェトナム、ソヴィエト、そして東欧の撮影クルーによる作品が含まれている。

私はラオスでは唯一プロとして活動するインディペンデント映画監督なので、私の事例をお話しすることで、ラオス映画の過去と現在についての大半を語ることができるであろう。まずはじめに有効かと思われる話は、もともと私は法律の勉強を志していたのだが、革命が勃発し、1977年、チェコスロヴァキアにて映画製作を学んでくるよう政府から任命を受けたのである。映画作家になることは私の第一希望ではなかったが、その時点では外国で何かを学びたいという意欲があったため、同意することにした。それが、9年間のプラハ生活の始まりだった。

私はシャルル大学芸術・音楽学部の映画・テレビ学科に籍を置き、ヤン・マケーン氏のもとで撮影の勉強をした。マケーン氏はプラハのバランドフ・スタジオ一の有能なカメラマンであった。9年間の外国生活というのは長いものだが、当時のプラハでは他にも50~60人のラオス留学生がいたため、孤独に感じることはなかった。私を含めて6名のラオス留学生がシャルル大学で映画の勉強をしていたが、私以外はフランスやドイツやスイスに発ったり、またはラオスに帰ったりしたため、卒業をしたのは結局私だけであった。

6年間祖国を留守にした後たった一度故郷に帰ったことがあるが、それはラオスについてのドキュメンタリーを撮影するためであった。結果的にその作品は私の卒業制作『Country of a Million Elephants(百万の象の国)』となった。この作品は、16ミリで撮影されたかなり出来映えのよいもので、1986年に完成し、その後チェコスロヴァキアでテレビ放映された。卒業論文は、ラオスと東南アジア映画についてチェコ語で書いた。

ラオスに最終的に戻ってきたのは1987年で、ラオス国営テレビ局の監督・撮影技師として働き始めた。ほとんど製作費もない状態で、作った作品といえばラオス北部ルアンプラバンについてのいわば“観光・政治的”と形容されるもので、これには満足しているとは言い難い。大学で知識を身につけた私としては、もっと質の高い作品を作りたかったからだ。

そこは2ヵ月で辞め、新しく設立されたラオ・シネマトグラフィー国営企業で働くようになったが、そこで私が知り合ったラオス映画監督たちは、ロシア、ブルガリア、ハンガリー、インドそしてチェコスロヴァキアで勉強をしてきた人々だった。1987年、私は2本の35ミリ作品を製作した。1本はカラーでビエンチャンの共産党会議に関するもの、そしてもう1本は白黒で『レッド・ロータス』(”Boa Deng”)という。1975年の革命以降ラオスで製作された劇映画はたった2本であるが、『レッド・ロータス』はそのうちの1本である。もう1本は、1983年にソムチス・フォルセナが製作したカラー35ミリ作品『壷の平原からの銃声』だ(この作品はラオス人民軍隊の第二大隊の勇敢な兵士たちの話で、残念ながら検閲に通 らなかった)。

一方『レッド・ロータス』は革命のラブ・ストーリーで、米国が後ろ楯しているラオス王宮政府の崩壊前夜のとある田舎町を舞台としている。現在私の妻であるソムチス・ヴォンサム・アンが演じるボア・デンが、村の少年カマンに恋をするが、政府のスパイである継父の策略もあって、カマンの家は急襲を受け、パテト・ラオのために闘おうとするカマンは村を出ていかねばならない。カマンのいない間、ボア・デンは村の裕福な男と結婚させようとする両親の企てを拒む。カマンが村への共産党の襲撃を率い、ボア・デンの継父を殺すことで、二人は再び一緒になり、ボア・デンの愛が証明されることになる。

シンプルな話ではあるが、この映画はラオスの生活・文化諸相を表現している。例えば、伝統的な結婚式のシーンがそれだ。また、きわどい題材をいくつか取り上げているのも事実である。倫理的に腐敗した反動勢力を批判しているのに加えて、ボア・デンがサロンをまとい入浴しているところを隠し撮りするような、継父の淫らな感情をも取り上げている。

83分という短さではあったが、『レッド・ロータス』を製作するのは本当に大変であった。それは、私たちが何も持ちあわせていなかったからだ。ラオスでこのような映画を製作するには、資金のないことが大きな問題であった。『レッド・ロータス』はわずか5000米ドルで製作されたが、回していると勝手にスピードが速まる傾向のある第二次世界大戦時のソヴィエト製カメラを使わなければならなかったし、出演者には無料で働いてもらわねばならなかった。その限られた資金で22日間行われた撮影では、正直言って自分が撮りたかったものすべてを撮れるというような状況ではなかった。撮影はビエンチャンだったが、現像と編集はラオスでは機材不足のため、ベトナムのハノイで行われた。

私はもともと『レッド・ロータス』の監督をやる予定ではなかった。ロシアでドキュメンタリー映画を勉強してきた同僚がメガホンを握り、私が彼のカメラマンとして働くはずだったのだ。しかし、その監督は何をしたらよいのか分からなくなり、私が共同監督にあがったのである。撮影が始まる頃には、彼は私の助手となってしまい、映画が完成する前に現場を去ってしまった。

1988年、『レッド・ロータス』は地方上映される前にビエンチャンの映画館で2週間上映された。作品は困難な状況のもとで製作されたが、1989年には旧ソ連邦、94年に日本[アジアフォーカス・福岡映画祭]、95年にタイ、97年4月にはカンボジアで上映され、ことにカンボジアのプノンペンでは初めての東南アジア映画祭において審査員特別賞を受賞したことを、うれしく思う。多くの観客にとって、私の作品は初めてのラオス映画であり、またラオス文化の諸相に初めて触れる機会でもあったのだ。

編集者注:

 

協力:山形国際ドキュメンタリー映画祭 http://www.yidff.jp/
ラオス文化庁 映画局

 

 

 

コラム①新たなメディアの課題

アーティッドサイ・ボーンダーオファン (ラオス)

コラム②ラオスの映画産業についてはこちらから
ラオスは国土23万7000キロ平方メートル、人口約660万人(2013年時点、ラオス統計局)の内陸国で、47~68種もの民族が暮らしています。人口の75%は郊外に居住しており、ラオ族以外の仏教徒の民族は、国土の3分の2を占める山岳部に住んでいます。多様な人種を再びまとめるために、森林伐採やダム建設、村の排除が行われていることで、多くの人々は新しい生活スタイルに適応せざるを得なくなっています。地域の自然資源が使用できなくなる中、道路や市場、そしてテレビなどの現代の情報ツールは、まだ適応できそうもない新たな世界に国民たちを直面させているのです。経済や社会の変化は、ラオス国民の価値観や信条、生活スタイルに影響を与えています。特に、都市部での変化が最も急激です。購買力の増加により、人々はより物質主義になってきているようです。最近では、ラオスの人々は優しく寛大であり、人との調和を深める幸せな人生を送っていると考えられがちです。このイメージが、ラオスの文化は健全な生活を支えているという考えを助長しているのです。

ラオス情報文化観光省は、意見を交換し、理解を深め、協力関係を強めるために、情報委員会のメンバーとニュースや情報を共有しています。それは、将来的にさらなる協議を行う場を提供することになります。この地域や国全体の状況は急激に変化しており、好機と課題の両方をラオスに与えています。情報や文化、観光に関する仕事をしている人々は、幅広い政治的制圧の中で、責任ある姿勢で協力し合う努力をするという、難しい任務に直面しています。ラオスが新たな時代を迎え発展していく中、メディアは政党や国の政策を推進するため、そして国民に愛国心を持たせるためにも声を挙げなければなりません。

 

情報文化観光省は、詳しく分かりやすい情報を国民に提供することで、質と量の両方においてメディアの在り方を進化させ、現代化させています。現在、ラオスには100以上の新聞や雑誌があり、「Pasaxon」、「Vientiane Mai」、「Pathetlao」、「Vientiane Times」、 「Sports」、「Lao Patthana」、「Kongthap」、「Socio-Economic」、「KPL」、「News」、「Security」などは毎日発行されています。メディアは国の発展を具体化し促進するために、非常に大きな役割を果たしています。政府の政策を国民に伝え、その政策が実現されるかどうかを監視しているのです。現在、国内では1200人以上のジャーナリストが、新聞社のデスク、ラジオ局やテレビ局、さらにはオンラインメディアの会社などのメディア業界で活動しています。
ラオス政府は、ユーザーたちに建設的にSNSを利用させるため、ソーシャルメディアの規制を行っています。さらに、郵便通信省電子政府センターは、役人たちが不正確または不適格な情報や写真の投稿をチェックすることができる新たな法が、年内にも施行されると発表しました。このような法の下では、不正確もしくは不適切な投稿をした人物は警告を受け、さらには事態が深刻である、または国家機密に関わる問題であると判断された場合は、罰せられることとなります。国内のオンラインコミュニティーが巨大化し、ソーシャルメディア上に不正確で不適格な情報が溢れてきたことを受けての対策です。

法案を起草するにあたり、ラオス政府はソーシャルメディアへの対応のヒントを得るために他国の経験を探っており、特に隣国の中国やベトナムで採用されたシステムに注目しています。この地域のいくつかの国々は、FacebookなどのSNSへのアクセスを、国民たちはプロキシサーバーを通じて簡単にアクセスできるにもかかわらず、ブロックしています。
2014年9月16日付けの政令327番は、地方レベルの全ての青年会、警察や軍、学校、病院、国営企業、そしてラオスに存在するその他全ての会社は、ソーシャルメディアを通じて政府の名誉を棄損したり攻撃したりすることを禁じる法に、従わなければならないと命じました。ラオスの若者は個人や組織、共産党の政策、国の法律、防衛や安全への対策などに対して害を及ばさぬよう、進歩的な方法でソーシャルメディアを利用しなければならず、その他の違法行為にも携わりません。この政令は、他人と共有できるFacebookなどのソーシャルメディアへの投稿を禁じており、“いいね”をクリックすることも禁止しています。さらには浪費やギャンブル、ドラッグ、飲酒に関連した写真など、ラオスの伝統、文化や法律に反するメッセージや動画、写真、音楽、そしてポルノ動画も禁止されています。さらには、若いユーザーに対して、真実を知らないことについて自分の意見を主張しないようにと警告しています。多くの若者が、Facebookでの“いいね”を禁止することなど不可能であると主張し、この警告を批判してきました。そして、個人はソーシャルメディアを通じてそれぞれの意見を共有する権利があると主張しています。

-若手映画制作者たちが抱える同様の課題-

私は映画監督を志望した理由を問われることがよくあります。その質問への私の回答は次のようなものです。「シンガポールで学生をしていた頃、国際映画祭に行く機会がありました。ベトナムやタイ、さらにカンボジアまで、いろいろな国の作品が上映されていましたが、ラオスの作品はありませんでした。私はラオスについての映画や、ラオス人監督による映画がなぜ存在しないのかと疑問を抱きました。この経験がきっかけとなり、私は映画監督になりたいと思ったのです。」あの頃、私はいつか世界中で上映される映画を作りたいと願っていました。もう10年以上前のことです。しかし私はいまだに長編映画を制作できておらず、私が知る限りラオスの作品が国際映画祭に出品されたことはまだありません。

 

昔は映画制作というと、非常にコストがかかることでした。今でも高額ではありますが、自らの映画制作の力を試してみたいフィルムメーカーたちは、より多くのオプションが選べるようになりました。今では、映画学校だけでなくYouTubeやその他の映像制作のウェブサイトからも手法が学べるのです。本物のフィルムでなく、手頃なデジタルカメラでも撮影することができます。そして今までより多くの場で映像を公開できるのです。ラオスには地元の映画を心待ちにし、支援したいと願っている人々がたくさんおり、さらには外国の人たちもラオスの映画に感心を持ってくれています。要するに、我々には良質な映画を制作する意義があり、それに対する需要があるのです。では、なぜラオスの映画産業はいまだに繁栄していないのでしょう?面白い題材がないからでしょうか?想像力や創造性が足りないから?技術を習得し、新しいテクノロジーを使う能力がない?それとも才能がないのでしょうか?これらの疑問には、私も含め多くの人が答えを求めています。

 


ラオスの映画産業の発展を妨げる要因はいくつかあります。その1つが検閲であることは間違いありません。ラオスでは、短編であろうが長編であろうが、映画の尺に関係なく、検閲のため情報文化観光省の下部組織である映画局に脚本を提出しなければなりません。もし審査に通れば、映画局のスタッフの監視の下で撮影が行われます。彼らは、提出された脚本通りに撮影が行われているかどうかを確かめるため、クルーに同行するのです。彼らはまた、地元の権力者とも折り合いをつけてくれます。許可がなかったり、政府職員がいなかったりすると、協力が得られないことが多いのです。もしも外国人のスタッフやキャストがいれば、クルーは外務省に追加のプレスパスを申請しないといけません。この場合、外務省の職員もチームに同行し、撮影をスムーズに進める助けをしてくれます。


では、何が問題なのかと思うでしょう。許可が下りようが下りまいが、脚本をチェックしてもらうためには手数料が必要です。そして撮影許可も購入しないといけません。それに加えて、省の職員がチームに同行する場合、日当を支払わねばならない上に、食費や宿泊費も負担しなければならないのです。しかしながら、必要な公的書類を持っている政府職員が撮影に同行してくれると助かるため、多くのフィルムメーカーはこれらのコストがかかることに対して異議を唱えてはいません。特に、地元の権力者(接触が避けられず、しばしば質問を投げかけてくる)たちとの折り合いをつけてくれる点において、彼らは制作をスムーズに進めさせてくれるのです。むしろフィルムメーカーたちにとって問題なのは、映画局から脚本の許可を得るという最初のハードルなのです。

正確に言うと、映画制作を統治する法律や政令はないため、フィルムメーカーたちが従うべき明確で分かりやすい指針は存在しません。昨今、ラオスでの映画制作に対応するために適用されている法はメディア関連の法律です。その法に関して私が知る限りでは、メディアコンテンツは政府の批判、信条への反対、憎悪をあおること、非常識的行為の助長などを禁じています。近年では、映画局により却下された脚本もいくつかあり、特定のシーンを削除させられたものもあります。フィルムメーカーたちが知る限り、彼らはメディア法やその他の法律のどの指針にも違反していたいなめ、脚本が却下されたりシーンが削除させられたりした理由の根拠は不明なままです。


例えば、同性愛者がコミカルに表現されている限り、テレビや映画の中で同性愛を描くことは可能ですが、同性愛者の登場人物が互いへの愛情を示すことは許されていません。このルールはメディア法にもその他の法律にも明記されていないものです。親しみを示すために使われる代名詞などの一般的な言葉やフレーズも、脚本からは削除されます。登場人物の性格を表したり、他の登場人物との関係性を示したりするこのような言葉は、検閲会議(通常は1~2人から成る)において、無礼すぎる、もしくは不適切であると判断されるのです。それらの言葉は既に日常的に使われているにもかかわらず、劇中で使用することにより、視聴者がさらに利用するようになると怖れているようです。繰り返しますが、この問題は、フィルムメーカーたちが従うべきメディア法にもその他の法にも、記されていないのです。

私の脚本には父親を捜すためにラオスを訪れた外国人が登場しますが、彼は到着してすぐに、この国の食料とトイレについて不満を抱きます。ラオスのイメージを害する危険があるとの理由から、私はこのシーンの削除するよう言われました。

ここまでに述べた例は、フィルムメーカーたちが直面していても口にはできない問題です。我々の立場では、映画局に脚本を提出しフィードバックをもらうまでは、これらの問題に気づくことができないのです。明確な指針が存在しないことは、フィルムメーカー、特にそれを目指す若者たちにとっては恐ろしいことです。当局を怖れるようにと育てられ、疑問を抱いたり批判したりしないようになったとしても、何の意味もありません。我々は、多くのフィルムメーカーたちが自らのアイデアやストーリーを批判されることを、脚本を書く機会もない段階から怖れているという、異常な苦境に立たされています。その結果、我々は自らを検閲し始め、検閲に通りそうな物語を書こうとするのです。

これでは何も生み出せなくなることもあります。

コラム②ラオスの映画産業について

共産主義政権が王政を廃止し、権力を手にしてから33年が経過した現在、ラオスの映画産業には再び光が差しています。ラオスで視聴されている映画のほとんどはタイやハリウッドのもので、国内で制作される作品は毎年ごくわずかです。権力者たちは、国内の映画産業を支援することが国民のための極めて重要な収入源になると確信しています。

ショートフィルムは若きフィルムメーカーたちにとっての重要な表現の舞台であるだけでなく、真の興奮をもたらすものでもあります。ラオスの人々はタイのメロドラマを見るのが大好きな一方で、ラオスでは5~15分のショートフィルムが理想的な尺だと考えられています。ショートフィルムは、特にそれを映画産業へ足を踏み入れるための手段にする若いフィルムメーカーにとっては、スタート地点になり得ます。ラオスには映画学校がないため、全ての映画は完全に個人の技術や才能、情熱によって完成していきます。我々はDOLKAOメディアセンターで、人生観や信条、コミュニティーの意義についての共通理解を尊重しながら、若いフィルムメーカーたちに独創性を表現するために必要な支援や機会を与えています。

まだ発展途上なので、現段階ではラオスの映画産業の傾向を正確に指摘することは困難です。しかしラオスでは毎年、ショートフィルムのコンペティションが行われており、何年にもわたって、出品作品の数を大きく増やしてきています。コンペティションに出ることで、クリエイターたちは共に働き、競い合うと同時に才能や技量を売り込んでいるのです。

このようなコンペティションを開催しているにもかかわらず、ラオスには人材や技能、マーケティング、宣伝、技術、さらには資金についてまでも明確な方針がありません。制作も資金援助を募ることも、全責任はフィルムメーカーにありますが、フィルムメーカーの数が限られている現状でも、プロジェクトに資金を援助する者は誰もいません。さらには、業界は成長していても観客の数が限られているので、映画の製作費を調達するのは困難です。投資をしても利益が上がるかどうか予想するのが難しいのです。

ラオスで映画を制作することは素晴らしい学習経験であり、実験の機会であると考えられています。フィルムメーカーは自ら撮影し、ビデオや写真を撮ったり、尺を編集したりして映画を制作することによって、映画の中で自身の能力の限りストーリーを語ると同時に、自分の限界を試したり経験の土台を広げるのです。

 

先に述べたように、現在ラオスには映画学校も、メディアや映画制作について教えるコースがある学校もありません。ラオスのフィルムメーカーの90パーセントは独学で、残りの10パーセントは芸術を学ぶために外国へ渡っています。経験上、成功を収める映画を作るためにはクリエイティブな考えを持つことが全てであると私は確信しています。映画学校や大学では映画制作の技術を教えることはできでも、生徒に情熱やクリエイティブな思考を与えることはできません。ラオスの若き新人フィルムメーカーたちは、いろんな人から学ぶことに対して寛容な姿勢を持っているおかげで、精神的に支えられています。それぞれが新たな手法やアイデアを試し、過ちから学ぼうとしています。この思考によりフィルムメーカーたちはネットワークを広げ、映画産業において卓越した存在になっていくのです。

私は協力や相互支援の意義を強く信じています。成長し、学び、成功するためにはお互いの力が必要なのです。ラオスの映画産業が形作られていく中、我々は外国のフィルムメーカーたちを大いに歓迎しており、彼らが経験や知識を共有しに来てくれることを期待しています。それが人材に関する経験であろうが、技能、マーケティング、経営、あるいは技術に関する経験であろうが、ラオスの映画産業にとっては学ぶべきことがたくさんあります。これは全て、新たな知識や経験、さらには過ちに対してまでも寛容な姿勢を持つことが重要であるとの理解の上にあるものなのです。ラオスは今、協力者や指導者を求めており、他国とのながりを築こうとしています。互いを知り、技術や才能、能力を共有する必要性が非常に高いのです。

 

この国のフィルムメーカーやプロデューサーは、インターネットに関連した未来がラオスや他の国々の映画産業に訪れることに気づいていると、私は確信しています。ラオスのフィルムメーカーは、インターネットやソーシャルメディアがもたらす利益や重要性を理解しているのです。技術が手頃に利用できるようになったことで、ラオスのフィルムメーカーはより簡単に映画を撮影し、制作できるようになりました。彼らはより手軽で、よりクリエイティブな手法を用いて短い尺の映画を作ることで技術を向上させています。その代表的な例はスマートフォンでの撮影です。携帯さえあれば、誰でも数分でショートフィルムを撮ることができます。撮影が終われば、そのショートフィルムはYouTubeやFacebook、その他のあらゆるソーシャルメディアに簡単にアップできます。ネット上で配信することは、手早く多くの視聴者を引き付けられるだけでなく、時間もお金もかけずに宣伝できる方法でもあるのです。

ラオスはまだ映画産業を再起動しようとしている最中で、フィルムメーカーたちはインターネットビジネスで生計を立てることはできません。しかし将来は、インターネットをベースとしたビジネスが、この国においてフィルムメーカーの成功を左右する要素になることでしょう。

 

ding1Column byアーティッドサイ・ボーンダーオファン (ラオス)

ラオス国立大学を卒業後、インドのディア・パーク・インスティチュートにて、ドキュメンタリー映画の製作、文化交流を学ぶ。現在は、ラオスの農村に暮らす子供たちにニュース報道やラジオ放送、映像制作等総合的なメディア教育を実施する「DOKLAO」を主宰している。また、2009年より現地の国際映画祭である「ヴィエンチャナーレ」に主催者として参加したり、ラオス初のインディペンデント映像制作会社「Lao New Wave Cinema Production」の共同設立者として長編映画のプロデューサーも務めるなど、急速に進化するラオスの映画産業に多面的に関わっている。