Column 東ティモール

コラム①東ティモールの映画産業についてpart1

Bety Reis (東ティモール)

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私はずっと、新しい東ティモールの映画産業についてのエッセイの執筆を依頼されていました。しかし、そんなものは存在しません。この国からいくつかの映画を生み出した映画文化ならありますが、産業と呼べるものではないのです。国の歴史を考えれば驚くことではありません。「映画文化」における2人の重要人物、ルイージとステラは、新たに独立した国からインドネシア軍が撤退した直後、1999年の終わりに初めて東ティモールへ旅しました。この数カ月前に行われた歴史的な国民投票の後、数週間にわたって民兵とインドネシア軍によって破壊されていたため、インフラと呼べるものは何もありませんでした。東ティモールの国民のほとんどが退去させられ、何十万人もの人々が島の西部にあるインドネシア領土へと強制的に移されました。世界で一番新しい国家はその年に誕生したばかりで、優先されるべきは国連や様々な救済機関の指針に盛り込まれていた数多くの懸念に加え、経済、健康、水と衛生に関するものでした。


ドキュメンタリーにせよドラマにせよ、発展途上にあった映画制作は優先事項ではなく、将来的に取り組めば良い娯楽であると考えられていました。そのため、東ティモールについての映画は全て外国のフィルムメーカーやジャーナリストによって制作され、中には東ティモールとインドネシアの24年に及ぶ戦争に関する物語を伝えるため、命を懸けた者もいました。近年、外国から訪れるフィルムメーカーたちの中には、東ティモールの独立後に初めてティモール島に来た者が多く、彼らはティモールのクリエイターたちとのつながりを深めており、協力関係が生まれています。

 

クリス・フィリップスの名作「We As People」は、アーティストであり、詩人、さらに俳優でもあるオスメ・ゴンサルヴェスとのユニークな合作です。スペイン人フィルムメーカーのダビド・パラツォンは、2本の映画を制作するために数多くのティモール人と共同して働きました。フランシスカ・マリアはハワイで学んだ後、メルボルンのVCAでも学んだティモール人フィルムメーカーで、現在までに2本の映画を監督しています。先に述べた、プロデューサーのステラ・ザマラロとプロデューサー兼監督のルイージ・アクイストロは、2010年から2012年の間、ティモールの若きフィルムメーカーたち12人のために研修を組みました。この参加者たちは多くのショートフィルムを制作するに至り、彼らが設立したディリ・フィルムワークスはフェアトレード・フィルムと共同で、東ティモール初の長編映画「Beatriz’s War」を制作しました。これに伴い、オーストラリアを代表するアニメーション監督であるウェンディ・チャンドラーは、ディリを訪れました。東ティモールへの愛情を深めた彼女は、ディリ・フィルムワークスや、「Beatriz’s War」に主演したホセ・ダ・コスタと共に、「Jose’s Story」を制作しました。

東ティモールの映画制作の第一段階は、生まれたばかりの国についての素晴らしい物語を伝えるべく協力した他国のクリエイターとティモールのフィルムメーカーたちのコラボレーションにありました。これらの活動に対する資金提供はなく、彼らが好意により無償で奉仕したことは注目に値します。しかしいくら好意が集まっても映画産業は生まれません。映画の普及や制作に対する政府の持続的な支援などはありません。現時点で東ティモールに映画館は1つしかなく、商業ベースで生産したり、ポストプロダクションを行うための施設がない上に、必要とされる技術を有する人が非常に少ないのです。映画関係の仕事が少ないため、専門的な訓練を受けた人々の多くは、他地域で仕事を得なければならなくなります。

東ティモールの映画文化は、良く表現しても控えめであるというくらいでしょう。しかし、観客はティモールの映画を心から愛しています。「Beatriz’s War」は、オーストラリア、メルボルンのサン・シアターのマイケル・スミスと文化省から資金援助を受けたシネマ・ロロ・サエという野外映画を上映する団体と共に国内を回りました。シネマ・ロロ・サエでは国内のショートフィルムも上映され、大きな支持を得ています。マリアナでは1回の上映に4000人以上の人々が集い、「Beatriz’s War」を見た人々の数は10万人以上に上ると推測されています。人里離れた地域に暮らす人々の多くにとって、これらの映画は自身の言語で初めて見た映画であるだけでなく、そもそも映画を見ること自体が初めてであることが多いのです。国内で映画が制作され続け、いつの日か完全に東ティモールだけの力で制作できるようになることが重要です。その需要は明らかにあるのです。

 

映画は娯楽であるだけでなく、東ティモールでは国の独自性を主張する上で重要な役割を果たします。ティモール島はインドネシアの占領により分断されました。分断された地域間の活動とコミュニケーションは限られており、独立を目指して苦しんでいた間、国のもう一方の地域の人々が、どれほどインドネシアに立ち向かっていたのかを今でも多くのティモール人は知りません。それによって国の結束が弱まり、地域間の緊張が最高潮まで高まったことが、2006年に国が崩壊直前の危機を迎えた原因の一部になりました。映画は東ティモールの物語を伝えるための独特な手段と言えます。共有経験を示し、国家の同一性を感じさせることで安定と結束が生まれます。本が少なく、非識字率が高い上に数多くの言語が存在する国で、映画は国家としての意識を高めるための強力な手段になりました。ティモール政府は公民教育の番組などのチャンネルや、野外上映への援助を通して、映画の価値を認識しています。しかしながら、映画への資金援助はいまだに不定期で、非常に限られたままです。政府は将来、生まれゆくフィルムメーカーたちや芸術全般に対し、より強力で一貫した援助を行うでしょう。 映画は、東ティモールが自国の才能や自然の美しさ、そしてその類いまれなる物語を世界に示すための手段になります。独立後の数年間、私はビビ・ブラクという劇団で役者、作家、監督として働いていました。そして2010年に、先に述べたディリ・フィルムワークスという東ティモール初のテレビ制作会社を共同で立ち上げ、2つの由緒ある独自の映画制作ワークショップを行って次世代のフィルムメーカーたちを研修していました。その時期に私は、ディリ・フィルムワークスのメンバーと共に「闘鶏」、「Vagabond」、「Nit picking」の3本のショートフィルムを監督し、その他にも3本の映画をプロデュースしました。これらの映画はブリスベン国際映画祭、プネー・ショートフィルムフェスティバル、さらに東ティモールとオーストラリアで広く上映されました。私は「Beatriz’s War」をルイージ・アクイストロと共同で監督し、主人公の母親役も演じました。この映画はいくつかの映画祭に出品され、何万人ものティモール人に視聴されました。最近行われたディリでのプレミアが満席でした。現在私は、ディリ・フィルムワークスでコメディとドラマの2本の新しい長編映画を手掛けています。

 

コラム②東ティモールの映画産業についてpart2

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 1999年以来、東ティモールはダメージからの再建を図っています。これまでに多くのことを成し遂げましたが、達成されていない目的もまだ多く残っています。女性の権利、子供たちの権利、そして自分たち自身で統治する権利など多くの権利のために、我々は戦わなければならない状況が続いています。さらに我々に与えられていない権利がもう1つあります。それは自分たちの物語を語る権利です。東ティモール初の長編映画である「Beatriz’s War」が、東ティモールの映画文化、さらには映画産業の出発点となることを私は願っていました。

 東ティモールが独立してからの数年間、後に長編映画「Beatriz’s War」を共同で執筆し、ベアトリス役で主演することになるイリム・トレンティーノと共に、私は役者、作家、監督として、ビビ・ブラクという劇団で働いていました。イリムはその前に、オーストラリア映画の「Balibo」にも携わっており、何百人ものエキストラと共にリハーサルをし、彼らの調整を行いました。私はここでエキストラのキャスティングを行っていて、「Balibo」の撮影中にプロデューサーのルイージ・アクイストロに出会いました。彼らが映画を作っているところを見て、私は映画制作に対する強い情熱を感じましたが、どこから始めればいいのか分からなかったので、友人から基本を教わることにしたのです。

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2009年、先に述べたルイージ・アクイストロとプロデューサーのステラ・ザマラロから電話をもらい、「Beatriz’s War」のキャスティングに参加してほしいと頼まれました。次の年、私は東ティモール初の、映画とテレビ番組の制作会社であるディリ・フィルムワークスをホセ・ダ・コスタとガスパール・デ・OA・サルメントと共同で立ち上げました。ディリ・フィルムワークスは2つの由緒ある映画制作ワークショップを行い、次世代のフィルムメーカーを研修してきました。我々はこの時期に、「闘鶏」、「Tais Market」、「Salvador」、
「Vagabond」、そして「Nit Picking」の5本のショートフィルムを制作しました。これらの映画はブリスベン国際映画祭、プネー・ショートフィルムフェスティバル、そして東ティモールとオーストラリアの広くで上映されました。また、「闘鶏」は今年、日本のショートショート フィルムフェスティバル & アジアでも上映されました。私は今、ディリ・フィルムワークスで監督として、コメディとドラマの2本の長編映画を手掛けています。
「Beatriz’s War」の話に戻すと、若き日のベアトリスの母親役を演じたことに加えて、私はルイージ・カストロと共にこの映画の監督も務めました。この東ティモール初の長編映画は2013年に完成し、いくつかの映画祭に出品され、東ティモールの広範囲で何万人もの人々に視聴されました。最近行われたディリでのプレミアは観客で埋め尽くされていました。

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映画制作には多くの難関があります。どの国で制作しても起こるような問題もありますが、貧しく設備が整っておらず、映画制作の歴史がない国で作るからこそ起こる特殊な問題もあります。撮影の序盤に、クルーとの間に問題が生じました。相手がティモール人であろうとなかろうと、女性から指示を受けることに少数のティモール人男性が憤慨したのです。男性は女性が仕事をするそばで、じっと立って監視する傾向にあるティモールではありがちなことです。このような態度はセットの雰囲気を常に張りつめさせ、ルルド・プレスとステラ・ザマラロの2人のプロデューサーは、2回目の撮影が始まる前にこの問題を解決しなければなりませんでした。何人かのクルーは再び雇われることがありませんでしたが、その他のメンバーは、映画制作において重要な役割を果たす女性たちを尊敬すべきことを理解し、そしてこの映画のテーマである抵抗についても確かに理解していました。2回目の撮影では、ティモールの人々が団結して働いた時に生まれる強い組織力を感じることができました。勝利を得て生き残るためにはコミュニケーションと行動が非常に重要であった、抵抗運動の時代に学んだ何かがあるのです。

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ロケ地のクララスでもまた、特殊な問題がいくつか起こりました。クララスには電気も水もありません。井戸も水をためるタンクもないため、水は川から運ばなければなりませんでした。さらにバッテリーを充電するため、そして夜にクルーのキャンプを照らすために発電機も必要でした。60人のクルーの需要をまかなうため、水は2日に1回トラックで運ばれました。他にもトイレを掘り、道を作り、近くのヴィケケから物資を調達する必要がありました。映画制作におけるこの工程は、忘れられない経験になりました。

 虐殺のシーンを撮影した後、主演女優のイリム・トレンティーノは自身が演じるキャラクターの夫の死体を探して泣き崩れてしまいました。私は「カット!」と声を上げ、たくさんのエキストラたちの体の間を進み彼女を慰めに行きましたが、私自身が悲しみに打ち負かされるだけでした。あの日クララスにいた人々や、他地域のキャストやクルーにとって、このシーンを撮ることは感情の浄化にはなり得ませんでした。ただ単純に気分を沈めさせ、苦痛を与える経験でしかなかったのです。しかし強いことに、1983年を生き抜いた女性たちの誇らしげで反抗的な表情は凛々しいものでした。


この映画のエキストラの多くはクララスの出身者で、虐殺がどのように行われたのかを情景を説明しながら教えてくれました。撮影の前日にある重要な詳細が判明しました。東ティモールがインドネシアに襲撃される前に彼らが「Foho Ramelau」という歌を作らされたということを、1人の生存者がルイージ・アクイストロと私に教えてくれたのです。インドネシア人たちは何の罪もない男性や男の子たちを何百人も殺すことができなかったので、殺人を正当化する必要があったのです。「Foho Ramelau」は反対運動の応援歌で、厳しく禁止されたため、この歌を歌うだけで、射撃を開始される十分な理由になりました。あの日、クララスでは200人以上が殺害され、その後の数カ月でクララスとヴィケケでさらに大勢の命が奪われました。

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虐殺シーンの撮影は、エキストラとして参加した人々に多くの記憶をよみがえらせました。彼らのうちの3人は死体の山に埋もれてじっと静止し、死んだふりをしたことで殺害を免れました。他の人たちは捕らえられる前に逃げ出しましたが、父親や息子、兄弟などを殺されました。にもかかわらず、彼らは再演することを強く希望したのです。しかしカメラが回ると男性たちは涙を流し始めました。若い男性が彼の赤ん坊にしがみつくシーンは心を引き裂くもので、虐殺がいかに理解しがたいものであるかを詳細に伝えていました。辺りは静まり返り、ルイージ・アクイストロは私に、なぜ「アクション!」と言わないのかと聞いてきました。私は涙が止まらなかったのでルイージが代わりに掛け声をかけましたが、インドネシアの指揮官を演じていたガスパール・サルメントは演技を続けることができませんでした。彼は東ティモールで秘密裏に行われている活動に参加しており、彼の家族はヴィケケの出身でした。そして彼もまた、泣き崩れてしまったのです。

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映画を制作したことがなく、大きなスクリーンを通して自国の言語や自国の人々の顔を見聞きしたこともなく、500年もの間圧迫されてきたような国で生きることがどのようなものか、想像してみてください。我が国初の長編映画である「Beatriz’s War」は苦しみに満ちていると同時に、自国だけでなく世界中の人々に我々の物語を伝えるための勇気、愛、そして情熱にあふれています。ディリの西にあるマリアナという国境沿いの街で、この映画は1回の上映で4000人もの観客を動員しました。さらにその次の夜には2000人が訪れ、見終わった後にはもう一度見たいという気持ちになっていたのです。それはどの街で上映しても同じことで、「Beatriz’s War」を見た観客は10万人を超えると推定されています。人里離れた地域に暮らす人々の多くにとって、これらの映画は自身の言語で初めて見た映画であるだけでなく、そもそも映画を見ること自体が初めてであること多いのです。東ティモールの映画文化が質素であることは間違いありませんが、観客は東ティモールの映画を心から愛しているのです。

 私は16歳の頃、東ティモールは投票により独立しました。するとインドネシア軍は私の国を焼き払い、たくさんの人々を殺害し、レイプしました。私は処刑に備えてひざまずかされました。助かったことを嬉しく思うと同時に、今たくさんの人たちの共感を得られているこの映画を制作できたことを、とても光栄に思います。

 

Column by Bety Reis (東ティモール)

東ティモールを代表する映画監督。自国で初の映画とテレビのプロダクション会社Dili Film Worksを共同設立し、現在2作の長編映画を制作中。監督と東ティモールにとっても初の長編映画”Beatriz’s War”が、インド国際映画際(2013)で最優秀賞を受賞した。