Project 2

日本各地のストーリー創作

「日映りの食卓」高野ユタ

 黒曜石のような毛並みをぐいと反らして伸びをする。そのまま床へと転がると、檻全体がどすんと揺れた。体をよじればすぐに端へとぶつかって、この中も大分窮屈になったなあ、とひとごとのように思う。
 手持ちぶさたに床へ敷きつめられた細い丸太を爪で引っかく。取り囲むように組まれた格子の隙間からは、柔らかくあたたかな光が射していた。
 そろそろかな、と待っていると、檻にお盆が差しこまれた。細微な彫刻の美しいお盆の上には豪勢な食事が山を作っている。
 ごろりと転がり起き、クンとひとつ鼻をひくつかせてから鼻先を突っこんだ。口を大きく開けると、グルゥと喉の奥が鳴って、食むたびに牙がむき出しになる。山に盛られていた皿の上はあっというまに空になり、私は木肌を見せる皿のカーブをぺろぺろとなめた。
 平らげると食べる前と同じようにごろりと床に背を預ける。見上げた先に張り巡らされた丸太のあいだから陽が射しこんで、その強さに、わずかに目を眇めた。
 手に入れた満腹感を大切に抱えると、黒光りする毛むくじゃらな体をもう一度、うんと伸ばした。

  *

 お母さんは食事を大切にする人だった。
 きっちり一日三食。特に朝は絶対で、雨の日も嵐の日も吹雪の日も、いつだって栄養たっぷりのごはんを家族のために用意してくれていた。
 あの朝も、ダイニングテーブルには当たり前みたいにほかほかの食事が並んでいた。けれど、その朝食に私は手をつけなかった。
 四分の一に切ったホッケの開きにじゃがいもとわかめのみそ汁、きんぴらごぼうとご飯。
 それが、最後に見たお母さんのごはんだった。


「千雪、明日の朝、どうする?」
 月に一度、なにげなさを装って聞かれるその質問に、私は野菜を洗う手を止めて振り返った。二月の水は冷たくて指先がじんじんする。
「ん、大丈夫」
 なにが、なんて今さら言われなくてもわかる私は、いつもと同じ言葉で曖昧に笑ってみせた。お父さんもいつもどおり「わかった」とだけうなずく。「いらない」も「食べない」も、どちらも口にしたくはなかった。
 あの朝から、明日でちょうど十一ヶ月。
 何度も巡っては何度も通りすぎる、そんなふつうの朝のはずだった。冬の間に蓄えた脂肪をなんとかしようなんて思いつきで、手始めに朝食を抜こうと思っただけ。「ちゃんと食べなきゃだめよ」と言うお母さんに、「いらないって言ったのに」とふてくされて返した、ただそれだけの朝だった。
 駆けつけた病院でのことも、葬儀のことも、そのあとのことも、私はほとんど覚えていない。なにもかもがおぼろげなままで、いつのまにかすべてが終わったあとだった。
 そうして気がつけば、私の身体は食べものをうまく受け入れられなくなっていた。
「千雪、大丈夫?」
 心配の意味だけを持った声音で覗きこまれて、慌てて水道のレバーを下げた。さっきから水を流しっぱなしで、ミニトマトがザルからあふれ出てしまっている。
「へいき、へいき。ちょっとぼーっとしてた。おなかすいたのかも」
 うっかり口をついてでたごまかしの言葉に苦笑する。よりにもよっておなかがすいたなんて。
 洗い直したミニトマトの水を適当に切っていると、炊飯器から平坦な機械音が鳴った。お父さんが動くのを見越して、反発する磁石みたいな軌道で仏間へ向かう。炊きたてのご飯が供えられる前の仏壇に向き合い、手を合わせた。
 満面の笑みを浮かべるお母さんの写真は、以前、海へキャンプに行ったときのものだ。ずいぶん前のものなのに、まるで昨日撮ったみたいにすら思えて目を逸らした。
 お母さんの仏前へご飯を供え終わったお父さんは、そのままの足で浴室へ向かった。こうやって夕食のタイミングが重なると、お父さんは風呂だ仕事だとなにかと理由をつけて時間をずらしてくれる。お母さんの月命日の前後は特にそうだった。
 月命日が近づくと、私の状態はいつも大なり小なり悪化した。普段なら少し抵抗感がある程度なのに、その期間は過敏さを増して喉が食べものを押し返すようなことも少なくない。なかば無理矢理飲みこんでいるような状態だから、ひとりにしてもらえるのは多少気が楽だった。
 小さめのボウルに移したミニトマトを持って、居間のソファに腰かける。月命日の前後かどうかにかかわらず、ダイニングテーブルにはもうかなりのあいだ座っていない。
 手元を見ずにボウルからミニトマトをつまみ、ひとつ口へ放りこんだ。トマトは水分が多くて飲みこみやすいし、栄養があるから気に入っている。初七日のころ栄養失調で倒れた前科がある私としては、外せないポイントだった。
 喉の引っかかるような違和感を受け流しつつ、事務的に咀嚼しては飲み下す、をひたすら繰り返す。今日はあまり調子がよくなかった。小波のようだった違和感が少しずつ大きくなってきているのを感じて、ボウルを持ったまま自分の部屋へ向かった。
 部屋の中は、月明かりが射して眩しかった。
 下ろしたブラインドを少し閉め、ボウルを抱えたままでベッドに寝ころがる。左手は無意識に喉元を撫でていた。
 ベッドの上には調節したとおりだんだら縞の影が落ち、私もシーツも一緒くたに二色の縞に塗り分けられた。小さく身体を丸め、射しこむ光の帯を目で辿る。
 まるで檻の中に身を置いているかのような感覚を染みこませていくと、さざめいていた小波は凪いでいき、うねりを帯びた喉奥の抵抗感はゆっくりと引いていった。
 私は手探りでミニトマトを掴むと、中断していた食事を再開した。目の前の影と頭の中の光を重ね合わせて、夢の中の私をなぞる。視界と思考の端に黒い被毛が掠めた。
 私は毎月、夢の中で熊になる。
 いる場所はいつも同じ、細い丸太でつくられた檻の中。井桁型に組んだ丸太からは光が漏れて、檻の中で、私の黒い被毛はいつもボーダーに照らされる。
 はじめて見たのは、身体がこんな調子になったのと同じくらいのころだった。きまって毎月、なぜかお母さんの月命日の前日に見るその夢は、感触もにおいもすべてが本当みたいにリアルだった。
 願望なのかなんなのか、熊の私は毎回気持ちいいほどよく食べる。せり上がるような感覚のない食事は忘れかけていた食事の感覚を思い出させてくれたし、食事がうまくとれない現実からちょうどよく私の気を逸らしてくれた。そうして夢と現実を繰り返すうち、私という熊は、ままならない現実の食事の手助けになっていった。
 三度ドアをノックされて、はっと顔を上げた。危うく寝かけていたことに気がついてボウルを見る。中身は空だった。
「千雪、寝てる? お風呂入んない?」
「ん、入る。今行く」
 閉じたままのドアに答えながら身体を起こす。熊になるにはまだ早い時間だ。
「お父さん、洗いものあとでまとめてやるから、食べたらシンクに置いておいて」
 ボウルを置きに寄った台所でそう声をかけ、さっさと脱衣所に向かった。
 せめてお父さんがゆっくりできるようにと長風呂をきめこんだ私は、湯あたりをおこしてぐったりと眠りについた。夢の中の熊の私はそんなこともおかまいなしで、この日もたらふくごはんを食べた。

 三月に入るとお父さんはにわかに忙しくなった。期末で仕事が忙しいのにプラスして、慣れないお母さんの一周忌法要の準備が大変みたいだった。
 なにか手伝いたかったけど逆に邪魔になりそうだったから、私は最低限迷惑をかけない生活を心がけていた。
 お母さんの一周忌が数日後に迫ったころだった。
 いつも朝食代わりにしているスムージーのふたを開けたとき、身体の深いところから猛烈にいやな感覚がこみ上げた。押しのけるようにスムージーを遠ざけた手が震えて、じんわりと全身に冷や汗がにじむ。

 時期的に不調になるのはおかしくない。だけど明らかに今までとレベルが違った。
 お父さんにバレないようになんとかスムージーを流しこんで、転がるように家を出た。たまたま体調不良かもとか、朝だからとか、誰に向けてかわからないいいわけを並べながら半日をすごし、いつも昼休みにひとりですごしている空き教室へ走った。
 一階の外れにあるその教室は年じゅう窓の雪囲いがつきっぱなしで、夢に近い光の射しこむ最良の場所だった。けれど、昼食用のサンドイッチはどうがんばっても胃まで到達しなかった。
 その日はほとんど食事ができないまま、お父さんにはちゃんと食べたふりをして早々にベッドに入った。一日三食を守れなかったのはこの一年ではじめてだった。布団の中にスマホを引っ張りこみ、「熊、餌」と検索をかけてみる。けれど出てきた画像にめぼしいものはなくて、力なく枕に突っ伏した。
「どうしよう……お母さん」
 知らない国で迷子になったような途方もなさだった。ブラインドの隙間からは月明かりがあふれて、正面に転がる私をいつもの模様に染める。夢でいつも食べている食事を反芻するとわずかに胃の奥が熱くなる感覚がしたけれど、それだけだった。
 翌日、私は昼休みになると同時に教室を飛び出し、階段を一段飛ばしで駆け上がった。四階には図書室がある。
 静まりかえったなかをずかずかと進み、料理本や食文化関係の棚を端から順にさらっていった。
 昨夜寝しなに考えていて、小さな引っかかりを覚えたのだ。夢の中の私は檻に入れられた熊のわりに、食べているものがどうにも餌っぽくない。どちらかというと食事というふうで、きちんと皿に盛られてもいる。今朝はスムージーの半分も飲めなかった。たかが夢の光景をこんなに必死に追いかけているなんてばからしいことだけど、これ以外に私が縋れるものなんて思いつかなかった。
 食べもの関係の本は写真が多く、ぱらぱらとめくるだけでも内容の確認ができて助かった。もう何十分経ったのか、何冊目なのかもわからない本のページを繰っていたとき、私ははっと手を止めた。
 写真のそれはずいぶん繊細に盛りつけられてはいたけれど、夢で見る皿の中身とそっくりだった。そう思うのと同時に胃がぎゅると動いて、同意したような気がした。
 カウンター当番に貸し出し処理をしてもらい、大判の本を抱きかかえて図書室を出た。昼休みは残り十分もなかった。空き教室へ向かうには時間が足りず、ひと気のない屋上前の踊り場に駆けこむように座りこんで本を広げる。ページいっぱいに印刷された料理を見つめながら口へ運ぶと、サンドイッチは抗うことなくするりと喉奥に落ちていった。
「や、やった……!」
 たった二日ぶりだというのに、食べものがまともに喉を通りすぎる感覚に安堵して、ばかみたいに両手を上げて喜んだ。直後、背にしていた階段の下から聞こえた、ふっと吹き出すような柔らかな声に、小さく鼓膜が震えた。
「あ、ごめん。邪魔しちゃった」
 振り返ると、同じクラスの篠田さんが、わずかに眉を下げて申し訳なさそうに微笑んでいた。
「え、と……」
 私は面食らったまま固まった。珍妙な場面を見られてしまったことよりも、篠田さんを相手にどういう対応をすればいいのか、咄嗟にわからなかったからだ。
 篠田あゆ葉といえば、いつもクラスの真ん中にいるような、いわゆる一軍的な女の子だ。近寄りがたいタイプというわけではないけれど、さして目立つほうじゃない私は普段関わることもないし、話したこともほとんどなかった。ていうかそもそも、なぜこんなところにいるんだろう。と、自分のことは棚に上げて困惑する。
「すごい気迫だったから、ついつい追っかけちゃったよ」
 私が戸惑っているあいだに、篠田さんは階段を上がってきていた。軽やかに笑う声に合わせて、くるりとカールした睫毛が小さく揺れる。
「茅さんも、あゆ葉と一緒なかんじ?」
「へ……?」
「違ったか。まあいいや、これこれ」
 まぬけな声を出す私を気にも留めず、篠田さんの細い指は、私のすがるべき藁——借りてきたばかりの本を指す。ぱたんと閉じられた本の表紙を見て、はじめて、私はその本がアイヌ料理の本だと知った。
「あゆ葉、アイヌなんだよね」
 顔を持ち上げると、にっこりと微笑む篠田さんと目が合った。
「そうなんだ」
 相づちを打ちながら、もう一度本に視線を落とす。夢に見るほどなのに、夢以外で食べた記憶はまったくない。
 ぱらぱらページをめくっていると、隣で篠田さんがまた吹き出した。
「めちゃくちゃふつうに流された」
「へ? ……あ、ごめん。篠田さんに関心がないとかじゃなくて、ほんと」
「ふは」
 なにがツボに入ったのか、篠田さんは突然、おなかを抱えて笑い出した。
「や、ちゃんと聞いてたよ。……そうなんだね」
 居住まいを正して言い直すと、さらに笑い声が大きくなる。慌てて「知らなかった」と真面目な顔でつけ足してみれば、「言ってないからね」とまた笑った。
「はー。背中いたい」
 目元を拭った篠田さんは、ふう、とひとつ息を吐いてから、にやりといたずらっぽい笑顔を私に向けた。
「……で。あゆ葉のことはいいとして、こっちは関心あるんだよね? めっちゃ食い入るように見てたし、ひとりでバンザイまでしてさ」
 笑いすぎて上気した頬を持ち上げた篠田さんは、仕切り直しとばかりに恭しく本を拾い上げて、私に振って見せた。窺うように薄茶色の瞳に覗きこまれ、どきりとする。
 関心がないわけでは、もちろんない。この本は今のところ私の一縷の望みであり、救世主だ。とはいえ、さっきはじめて知ったものに関心があるなんて言うのも、なんとなく気が引けてしまう。
 答えに迷い、「よく、知らなくて」と口の中でぼそぼそ答えると、突然、篠田さんの右腕が私の左腕をつかまえて、ぐいっと勢いよく引いた。
「社会見学、行かない?」
 ふいにいたずらの相談をするみたいな距離で言われ、息をのんだ。篠田さんは、私が舌の動かし方を忘れたみたいに呆けるのをよそに、「研修旅行の方が、ぽいか」なんて言いながら、顎に手を当てている。私はすっかりおいてけぼりだった。
 社会見学でも研修旅行でも、そんなのはどっちだっていい。そんなことよりも、いったいなにがどうなってそうなったのか、篠田さんの思考回路がまったく読めない。ていうかそもそも、なんで私?
 勢いに圧されて無意識に身体を引くと、左手の下でガサリと音がした。瞬間、唐突に思い出した。今日の昼のノルマのサンドイッチを、まだほとんど食べていない。
 私は慌てて本のページをめくった。さっきと同じページを開いて、視覚と脳内イメージをすり合わせながらサンドイッチを口に詰めこんでいく。少し警戒しつつ口に含んだそれは、けれど一口目と同じように、抵抗少なく喉を通過していった。
 半分以上を食べ終え、無事に食べきれそうだと小さく息をついて、隣に座る篠田さんの気配にはっとした。
 必死になりすぎてすっかり忘れていた。会話もなにもかもほっぽりだした私の行動は、どう好意的にとっても奇行でしかないだろう。だからこそ、以前から昼食はひとりでとるようにしてきたのだ。
 さすがに引かれたかな。そう思って、おそるおそる、目線だけで隣を窺った。
 篠田さんは変わらず隣に座っていた。私の奇妙すぎる食事風景を笑うでも気味悪がるでもなく、かといって神妙さを漂わせるでもなく。ただ本当に、ふつうだった。
 サンドイッチの最後の一口を飲みこんだと同時に予鈴が鳴った。いつもと同じ無機質な音が空気を揺らす。
「で、行く?」
 立ち上がった勢いのまま二段下へとジャンプして、篠田さんは、狭い階段の上で器用にくるりとターンした。

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プロジェクト参加作家

  • 兵庫県 上田岳弘

    上田岳弘(うえだ・たかひろ)

    1979年、兵庫県生まれ。早稲田大学卒業。2013年、「太陽」で第45回新潮新人賞。2015年、「私の恋人」で第28回三島由紀夫賞。2016年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。2018年、『塔と重力』で平成29年度芸術選奨新人賞。2019年『ニムロッド』(講談社)で第160回芥川龍之介賞。

    「君たち」

    有給消化のため、淡路島にある別荘地に滞在する「僕」は、隣の家で暮らす謎の母子に出会う。うらめしや――日本人形で『播州皿屋敷』を演じる少女と自らの境遇について「わかりやすい説明」をする母親との一晩の記憶。

  • 福島県 大前粟生

    大前粟生(おおまえ・あお)

    小説家。92年兵庫県生まれ。著書に小説集『のけものどもの』(惑星と口笛ブックス)『回転草』『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)

    「おばあさんの皮」

    「美人とかいわれるのが嫌だった」。故郷の福島県三島町から上京する途中、立ち寄った土湯温泉で「おばあさんの皮」を手渡された京子。皮を被っておばあさんに変身し、気になる男性の心のうちを探ろうとするが……。

  • 北海道 高野ユタ

    高野ユタ(たかの・ゆた)

    北海道出身、在住。2020年、ショートショートの文学賞にリニューアルして初回となる第16回坊っちゃん文学賞で「羽釜」が大賞を受賞。

    「日映りの食卓」

    千雪は、お母さんが作ってくれた最後の朝ごはんを食べなかったことから、食べものをうまく受け入れられなくなる。夢で熊になってとる食事に助けられどうにかやり過ごしてきたが、一周忌が迫ったころ状態は悪化。そこで、一人の同級生と出会う――。