Project 2

日本各地のストーリー創作

「どうなるんだろう、村長の妻」
「やっぱ助かるんじゃん? わかんないけど」
 昼に篠田さんが取りこんでくれた布団にシーツをかけながら、さっき聞いた物語についてあれこれと言い合う。展開のパターンは多少察しがつくのに、途中でおあずけになると気になってしまうから不思議だ。
 それは、八重子さんの引きこまれるような話し方のせいもあるのかもしれない。またあの柔らかな声音で続きを聴けるのは、素直に楽しみだ。
「今日、きてよかった、私」
 敷き終わった布団に半身を埋めながら「ありがと」と続ける。篠田さんも自分の布団に寝転がった。
「それならよかった。茅さんなんか地味に詳しいとこあるし、あゆ葉寝落ちしちゃったし、あんま意味なかったかなって、ちょっと思ってたから」
「詳しくないって」
「ええー」
 冗談めかしながらも不満そうに篠田さんが唇を突き出すのに、私はふっと苦笑した。
「篠田さんが言ってるのって、昼間に八重子さんとしてた熊の話でしょ? あれ、本当に違うんだ。知ってたとかじゃなくてね。……見るの、夢に」
「夢?」
「そう。繰り返し見るの」
 にっこり笑ってみせてからひとつゆっくり息を吐く。それから私はこの一年のことを篠田さんに話した。
 お母さんのこと。ごはんがうまく食べられないこと。毎月、夢の中で熊になる私のこと。
 とりとめなく話す私の話を、篠田さんは寝転んだまま、ただ聞いてくれた。はじめて話をした日、おかしな私になにも言わずにいてくれたように。
「篠田さんさ、なにも知らないって言ってたけど、私をこうやって連れ出してくれたでしょ?」
「うん?」
「それはさ、知ってたからじゃん」
「おばあちゃんのこと? そんなの自分の家族のことだし、あたりまえっていうか。小さすぎない?」
 くすくすとおかしげに、けれど耳に心地いい声で篠田さんが笑う。
「でもなんか、なんでも、そういう小さい『知ってる』が積もっていくんだって、思った……です」
 言ってしまってから、しん、と一瞬静かになる。私はなんだか気恥ずかしくなって、頭から布団を被った。
「……以上。社会見学の感想! 電気消して!」
 布団の中から叫ぶと、けらけらと篠田さんの笑う声が聞こえ、私はさらに深く潜った。ぽすぽすと布団の上から手の感触があり、すぐにパチンと電気が消える。息苦しくなって布団から顔を出すと、常夜灯に照らされた篠田さんがにこにこ顔で待ち構えていた。私はもう一度布団に潜りかけ、思い直して半分だけ顔を出した。
「……あのさ」
「うん?」
「篠田さん、あの日はじめてアイヌって名乗ったって、夕方、言ってたでしょ? ……言ってみて、どう?」
 布団に半分埋もれたまま私が尋ねるのに、篠田さんはほんの少し考える仕草をしたあと、すぐにふっと吹き出した。
「めっちゃ、ふつうだね」
 常夜灯の薄明りに篠田さんの笑い声が弾む。その声はからりと明るい。
「茅さんは? 今、どお?」
「私?」
「うん」
「んー……、意外とふつう……」
「あは」
 さっきしたばかりの打ち明け話を思い浮かべながら答えると、篠田さんはくしゃくしゃに眉を下げて笑った。
「ね、こうやって一緒に眠ったらさ、あゆ葉も茅さんが見る熊の夢、見られたりしないかな」
 身を乗り出すようにして言う篠田さんは、心なしかワクワクして見える。
「見たいの?」
「見たい」
「……じゃあ手でも繋いでみる?」
「いーね」
 ふざけて言ったのに、篠田さんはまんざらでもなさそうにからからと笑った。学校では見たことのないような無邪気でやんちゃな顔に、私の方まで楽しくなる。私はダンスにでも誘うみたいに、隣に転がる篠田さんへ手を差し出した。

 目を開けると、見慣れた光の中にいた。
 横たわる私の黒い体は、落ちる影でしま模様に塗り分けられている。当たり前といえば当たり前だけど、篠田さんの気配はない。
 見慣れた景色の、いつもの夢。だけど、いつもと違って身体がものすごく重い。
 ひと月のあいだの食べすぎで成長しすぎたのかとも思ったけれど、すぐに逆だと気がついた。
 おなかが減っている。それも、尋常じゃないほど。そういえば、いつも結構な量を食べているけど、空腹を感じたことはなかった。大抵すぐに差し入れられる食事は、今日に限ってちっとも出てこなかった。
 戯れに檻の丸太に爪を立て、伏せるようにして外に顔を近づけてみる。外からは人の声や歌声のようなものが漏れ聞こえてきた。楽しそうな雰囲気に、長かった今日一日を思い出して、自然と心が浮き立つ。
 そのままぼんやり耳を傾けていると、ふいに檻の中になにかが差しこまれた。ようやくのごはんか、と獣じみた気分で起き上がり、固まった。
 懐かしいにおいが鼻をくすぐる。
 四分の一に切ったホッケの開き、じゃがいもとわかめのみそ汁、きんぴらごぼうとご飯。
 潤む目を何度しばたたいても消えない。それは、私があの朝食べなかったお母さんのごはんだった。
「朝食は絶対。三食きっちりね」
 聞こえてきた声に、ばっと顔を上げる。姿は見えない。だけど、そこにいる。
 お母さん、と言葉にならないまま呼びかけると、ふっとほんの少しあたりが明るくなった。
 聞き慣れたあたたかい声に促されるように、私はお盆に向き直った。人間の量で用意されたごはんに鼻先をそっと寄せる。ほかほかのごはんは、その湯気の柔らかさまで優しい。
 おそるおそるみそ汁をなめると、白みその甘みとかつおだしの優しい味が舌いっぱいに広がって視界が歪む。じゃがいものざらりとした舌触りが胸を締めつけて、みそ汁にぼたぼたとしずくがこぼれ落ちた。
 お母さんの味だ。しょう油の香ばしさも、てんさい糖のまるい甘みも、全部、全部。
 お盆の上の茶碗ががちゃがちゃぶつかるのを気にも留めず、私は夢中でお母さんのごはんを頬ばった。胡麻の一粒だって残したくなくて、端から端までお皿をなめる。見ると、体が淡く光っていた。一口飲みこむたびに黒々と艶めいていた被毛は綻ぶように体から離れ、鋭い爪も獰猛な鼻先も透けて、熊の体はどんどん私へ戻っていった。
 皿が空になったころには生成り色の光が檻の中いっぱいに溢れ、横縞を落としていた影を消し去った。いつのまにか天井を作っていた丸太は取り払われて、そこから零れるほどの光が射しこんでいた。すっかり人間の姿にもどった私は眩しいほどの光に包まれ、すり抜けるように檻から抜け出た。
 声はさっきの一度きりで、光の中に姿は見えない。それなのに、私を抱く光は泣きたいくらいあたたかかった。
 山ほどあるはずの伝えたい言葉はどれも口にできないまま、必死に光のヴェールをたぐり寄せる。けれど光は私を残して、解けるように離れてしまう。
 光が完全に離れる瞬間、優しくてあたたかいなにかがぎゅっと私の手を握りしめた。それを合図にしたように、置き去りにされた意識がひとり、ゆっくりと浮上していった。

 呻くような自分の声が耳に届いて、はっとまぶたを持ち上げる。流れ落ちる涙で髪がぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。身体ごと転がって、うつ伏せるようにして枕で顔を拭った。
 そのまま突っ伏していると、聞いたことがないほど大音量でおなかが唸り声をあげた。
「いい挨拶だね」
 顔だけずらして声の方を見れば、寝起きのいいらしい篠田さんが頬杖をついてにこにこと私を見ていた。
「おはよう。おなかすいた……」
「だろうね」
 本当に、信じられないくらいの空腹感だった。いつものスムージーなんかでは到底足りそうもない。
「夢、見られた?」
「や。なんか、茅さんが川で鮭とってる夢見た」
「本物じゃん」
 仰向けに寝転がって笑うと、うつ伏せたままの篠田さんもおかしそうに肩を揺らした。
「いま何時ぃ?」
 自分で確認する気のなさそうなだらけた仕草で篠田さんが言うのに、私はスマホへ手を伸ばした。画面をつけると、お父さんからいくつもメッセージが入っていた。
 文章と写真が交互にいくつか届いていて、寝起きと泣いたあとのコンボで霞む目をこすりながら、文字を追う。
 おはよう、から始まっていたお父さんのメッセージはこう続いていた。
『一昨日、千雪の持ってた本を見て懐かしくなって、探してみたら押し入れで見つけました。全部お母さんが大学のときのだよ』
 添付されていた画像を拡大する。写真には古そうなノートやファイル、綴じられたコピー用紙の束が写っていて、そのどれもがアイヌ文化に関するものだった。『これも』と書かれた下の写真には食関係の本が広げられており、『昔は作ってたこともあるんだけど、千雪覚えてない?』と笑顔のスタンプがついていた。
「どしたの? なんかあった?」
 篠田さんに覗きこまれて、へらりと笑う。
「んー、知らないことって、いっぱいあるなあって」
 私が言うのに、篠田さんはきょとんとしたあと「そりゃそーでしょー」と朗らかに笑った。
「あゆちゃんゆきちゃん、もう起きたのかい?」 襖が開いて、八重子さんが顔を出す。
「おはようございます」
「はい、おはよう。ふたりとも早いのねえ。まだ七時だけど、ごはんにする?」
 隣に寝転がったまま、篠田さんがわーいと両手を上げる。私はスマホを握りしめて、八重子さんを見上げた。
「あの、私、これからすぐ家に帰ろうと思うんです」
「あら、そうなの?」
「それで、あの、オハウをちょっと分けていただくことはできませんか? 家で……家族で、食べたくて」
 勢いこんで私が言うと、八重子さんはぱちぱちとまばたきをしたあと、ぷっくりと頬を持ち上げた。
「もちろんよ。すぐ包むわね」
 そう言って台所へ向かった八重子さんは、本当にあっというまにオハウを密閉容器に詰め替えて、私に持たせてくれた。
「篠田さん、本当にありがとね。ごめん、勝手に」
「いーっていーって。あゆ葉と茅さんの仲じゃん。あゆ葉は今日、おばあちゃんのシトつくり教室だから」
 やたらと軽い調子で言いながら、篠田さんがにやりと口の端を上げる。それに笑顔で応えると、八重子さんにお礼と挨拶をして玄関を出た。
 三月の早朝は、コートを首まで留めていてもまだ冷える。それでも冴えた空気は心地よく、吸いこむほどに肺から心までをすっと目覚めさせていく。
 スマホを取り出してお父さんに『今から帰る』とメッセージを送る。『家で食べるから朝ごはんは待ってて』と追加で送信するとすぐに既読になり、猫が踊っているスタンプが五つも連続でつけられた。
 私は提げていたオハウの容器を両手で抱え直し、小走りに地面を蹴った。
 家族とほかほかのごはんは、我が家のダイニングテーブルで待っている。

(了)

<本作品のモチーフにしたお話・文化>
イオマンテ

<引用>
「プクサの魂」(『アイヌの昔話』萱野茂:著、 平凡社:刊)

<取材協力(敬称略)>
関根摩耶(二風谷出身、大学三年生)
(公財)アイヌ民族文化財団

*この物語はフィクションです

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日本各地のストーリー創作

プロジェクト参加作家

  • 兵庫県 上田岳弘

    上田岳弘(うえだ・たかひろ)

    1979年、兵庫県生まれ。早稲田大学卒業。2013年、「太陽」で第45回新潮新人賞。2015年、「私の恋人」で第28回三島由紀夫賞。2016年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。2018年、『塔と重力』で平成29年度芸術選奨新人賞。2019年『ニムロッド』(講談社)で第160回芥川龍之介賞。

    「君たち」

    有給消化のため、淡路島にある別荘地に滞在する「僕」は、隣の家で暮らす謎の母子に出会う。うらめしや――日本人形で『播州皿屋敷』を演じる少女と自らの境遇について「わかりやすい説明」をする母親との一晩の記憶。

  • 福島県 大前粟生

    大前粟生(おおまえ・あお)

    小説家。92年兵庫県生まれ。著書に小説集『のけものどもの』(惑星と口笛ブックス)『回転草』『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)

    「おばあさんの皮」

    「美人とかいわれるのが嫌だった」。故郷の福島県三島町から上京する途中、立ち寄った土湯温泉で「おばあさんの皮」を手渡された京子。皮を被っておばあさんに変身し、気になる男性の心のうちを探ろうとするが……。

  • 北海道 高野ユタ

    高野ユタ(たかの・ゆた)

    北海道出身、在住。2020年、ショートショートの文学賞にリニューアルして初回となる第16回坊っちゃん文学賞で「羽釜」が大賞を受賞。

    「日映りの食卓」

    千雪は、お母さんが作ってくれた最後の朝ごはんを食べなかったことから、食べものをうまく受け入れられなくなる。夢で熊になってとる食事に助けられどうにかやり過ごしてきたが、一周忌が迫ったころ状態は悪化。そこで、一人の同級生と出会う――。