コラム・マレーシアColumn Malaysia

マレーシアのショートフィルムに対する思い(2/2)

2017/02/15

文:タン・チュイ・ムイ

将来有望な映画制作者を教育する:映画大学やシネマスクール

 

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マレーシアで映画や映画制作の学習を学問分野として扱うようになったのは、比較的、最近のことです。人文学の研究をもっと高く評価することがマレーシアでは重要だと思います。マレーシアが本当に先進国の仲間入りをするためには、全国民が自分の周りの世界について、そして自分の世界がどう見られているかについて批判的に考え、自分たちを表現できるようになるよう(例えば、文学の研究に献身的なマレーシアのプログラムをあまり多く知らないなど)、必死に鼓舞しなければいけません。そうすれば、もし芸術学科の全学生がアーティストとして働き始めたとしても、別の専門分野では人文学の教養があり批判的な視点を持つ従業員を雇うことで、その恩恵を受けられるでしょう(例えば、マレーシアでは公共サービスがとても充実しているなど)。しかし芸術学は、専門職として進める道が認識されにくいため、学生やその両親の間であまり人気がないように思えます。

 

他の誰もが認めるような逸話的な印象として、都会の生徒の方が映画学に興味を持つということが挙げられます。この事象は理解できるものの、私が取組みたい課題でもあります。というのは、1)マレーシアは農村部の人口が大部分を占め、2)マレーシア農村部の文化遺産は特に豊かな場合があるからです。私が個人的に聞いた興味深いマレーシアの物語の多くは、農村地域で聞いた話です。

 

マレーシアには映画制作のプログラム、または芸術学部や、映画学部、コミュニケーション学部など、映画学の授業を含むプログラムを持つ大学があまりありません(私が思いつくのは計6校です)。マルチメディア大学の映画芸術学部で映画制作を学べることは、もちろん知っているでしょうが、現段階で私が知る限りでは、この比較的新しいマルチメディア大学の映画芸術学部が、マレーシアにおいて学部レベルで映画制作を学べる唯一の教育機関です(“映画学校”と同等と言えます)。

 

マルチメディア大学映画芸術学部はマレーシア初の映画学校となり、国際的な映画学校協会であるCILECT (Centre International de Liaison des Ecoles de Cinéma et de Television)に加盟することを目指しています。私はこの大学の学生の現状を心配していて、基礎的なプログラムが早く開始されるように願っています。現在、学生は映画に関する授業だけを受講していますが、芸術や歴史、文学などについても同様に学ぶ必要があるからです。

 

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東南アジア諸国の協力

 

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前項のサブトピックのポイントで、この項の一部を回答できると思います。また、労働問題についても考えなければいけないでしょう。ASEAN加盟国の市民にとって、他の東南アジアの国々を訪問ビザや観光ビザで訪れる分には何も問題は生じません。しかし、短期就労となると話は別です。

 

映画学部の主要な目的の一端はマレーシア国民を教育することだと考える一方で、もっと生徒数を増やし、講師や東南アジア諸国の映画制作者の訪問を増やしたいと思っています。しかし、各地を訪問したり、講師を呼んだりするには、行政的な障害に直面する場合があるだけでなく財政的な問題も生じることがあります。

(了)

文:タン・チュイ・ムイ

マレーシアのショートフィルムに対する想い(1/2)

2017/02/01

マレーシアのショートフィルムに対する想い

文:タン・チュイ・ムイ

今回で18回目となるショートショート フィルムフェスティバル & アジアでは、6月に東南アジアプログラム&シンポジウムが開催され、タン・チュイ・ムイがショートフィルムについて討論するために招待されました。
彼女はシンポジウムの準備をする間に、マレーシアの映画業界や映画教育に携わる数名の著名人に国内のショートフィルムに対する各自の見解をコメントしてもらうことにしました。

チャールズ・リアリー博士は、ニューヨーク大学芸術学部ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アーツで映画学における博士号を得ています。彼はマレーシア初の私立大学、マルチメディア大学で、最も新しい映画芸術学部の学部長を務めています。

ショートフィルム

歴史上、初めて作られた映画を現代では“短編”と見なすため、「ショートフィルム」には長い歴史があると言えます。1898年にクアラルンプールで初めて上映された映画は、ヴィクトリア女王の即位60周年の式典を記録した“ショート”フィルムでした。しかし、もしも今、女王の即位60周年の映像をクアラルンプールで上映したとしても、それをショートフィルムと呼ぶかどうかは分かりません。現在のマレーシアにおいて「ショートフィルム」(もしくは「filem pendek」)という言葉は限定的に使われていて、その意味を狭く制限しています。

マレーシアでのショートフィルムは、短編のフィクション映画を指します。そのため、長編ドキュメンタリー映画より短くても、ドキュメンタリー映画はショートフィルムとは言いません。それはドキュメンタリーであり、“映画”ではないのです。これは意味論やマレーシア特有の共通言語が成し遂げた立派な功績のようにも見えますが、それでもなお、ドキュメンタリーや実験的な映画などの特性を上記のように定義する事で、正統派のフィクションを特別扱いしたマレーシアのメディアの曖昧な定義を目立たせてしまっています。

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その一方で、映画制作者は“映画”をほとんど作らなくなってしまいました。彼らはデジタル動画を作るようになったのです。つまり、“映画”という言葉そのものにもマレーシア特有の共通言語としての定義が当てはめられているのです。

ショートフィルム(特に広義で解釈した場合)は、映画館で上映される頻度はそんなに多くないものの、最近のマレーシア映像業界で重要な役割を果たしています。また、将来的にも重要な役目を担うだろうと私は考えています。
マレーシアで最も成功した映画監督の一人にヤスミン・アフマドがいます。彼女は晩年にショートフィルムがテレビで放映され、初めて注目を浴びました。作品にはマレーシアの国営石油会社が後援するホリデーシーズン向けコマーシャルや、公共サービスの告知コマーシャルなどがあります。
更に最近のショートフィルムを用いたコマーシャルには、民間企業が後援する、「BMW Shorties」プログラムなどもあります。これらの作品では、ショートフィルムの中でスポンサーのために最小限の製品スペースを設ける方法を用いています。これは台湾で「マイクロフィルム」と呼ばれるような手法に近く、マレーシアでは大きなチャンスが確実に潜んでいる分野だと思います。

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国内のコンテスト NGOや政府機関、民間企業などが主催し、ロゴデザインコンテスト、またはショートフィルムコンテスト(各組織の役割を宣伝する作品)のどちらかを扱っている場合が多いです。しかし、これらがショートフィルム制作の行く末を約束してくれるものだとは思えません(特にロゴデザインコンテストは、国内のデザイン業界の報酬を下げ、無給労働を作り出す原因となっているからです)。

フィルムフェスティバル(アジア諸国及びにマレーシア国内)は、引き続きショートフィルムのためのイベントとなっています。短編のフィクション映画、短編のドキュメンタリー映画、短編の実験映画、など分野は問いません。

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現在のマレーシア(そして世界中)では、多くの人々が映画館やテレビではなく、インターネットで映画を消費しています。また、YouTubeなどのソーシャルメディアでは、自主映画制作者とスポンサーのいる商業映画制作者の双方にプラットフォームを提供しています。また、YouTubeを収入源と考えているミュージックビデオの製作者にもプラットフォームは提供されます。ソーシャルメディアのコンテンツのためにスタッフを配属し、資金を投入している映画会社もあります。
YouTubeやVimeoのようなサイトの他に、東南アジアの自主制作映画の促進に特化したViddseeという動画サイトもあります。映画館の外では様々なタイプ、サイズ、形の“スクリーン”が普及しています。ショートフィルムはインタラクティブモードを含む、現在とは異なる視聴モードへと発展するべきなのかもしれません。

(つづく 次回は2月15日の公開です)

マレーシアの映画事情 [2/2]

2017/01/16

マレーシアの映画事情

伊多波一夫(Kazuo Itaba)

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マレーシアで映画を楽しもう

マレーシア映画をマレーシア以外で鑑賞する機会はまだまだ少なく、特に日本では映画祭でというのが現実です。では、マレーシアの映画館事情はどうなのでしょう。
私が初めてマレーシアで映画を観たのは14、5年前のことで、ハリウッド映画「マトリックス(The Matrix)」<1999年>でした。すでに、その映像の斬新さは評判でした。そんな映画を観たのは、今では見る事のないような寂れた単館の映画館でした。そして、その時の映画の印象は評判程ではないなというものでした。その数週間後、香港(Hong Kong)の映画館で見直して理由が分かりました。マレーシアの映画館で良く感じなかったのは、音響設備が古いものだったからのようです。今ではドルビーもデジタル・サウンドも当たり前ですが、当時はまだまだペコペコの音響の映画館も多かったのです。シネコンが普通になってきたアジアですが、音響がデジタルに未対応のスクリーンもまれにあります。観るときには、上映前には吹き替えなのか、字幕は付いているのかの確認も必要です。
マレーシアの映画館での上映作品は、ハリウッド映画、マレーシア映画、香港・台湾映画、インド映画、タイ映画、シンガポール映画と多岐にわたっています。これはマレーシアの地理的な位置関係、マレーシアを構成する人種によるためです。ただ特殊なのは、マレーシアのインド人は、南インドのタミール(Tamil)系が大多数であるという事。インド映画の主流・ムンバイ(Mumbai)のヒンドゥー(Hindu)映画だけではなく、チェンナイ(Chennai)のタミール映画も上映される機会も多いです。そんな人種構成を反映してか、映画によっては字幕が3〜4つ付くのも面白いでい事です。料金も10マレーシア・リンギット(Malaysia Ringgit)程(=約260円)と日本に比べれば格安です。マレーシアの人々は暑さを避けるように、気軽に映画館に足を運びます。旅行者にとっても手軽な休憩方法と言えると思います。

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マレーシアの特殊性

マレーシアの国土は、マレー半島とボルネオ島北部というように大きく二つに分かれています。この二つは民族構成も異なるだけでなく、両地域を行き来する際に出入国審査があるほど、独特な関係にあります。旅行をする日本人にとっては、クアラルンプール、ペナン島(Penang Island)、ランカウイ島(Langkawi Island)、マラッカ(Malacca)などの半島部が有名ですが、オラウータンの保護区や高峰キナバル山(Mt. Kinabalu)など豊かな自然が溢れているボルネオ島も魅力的です。食事もマレー料理、中国料理、インド料理だけではなく、日本料理から西洋料理、ハンバーガーなどのファストフードまで選択の幅は多岐にわたり、旅行者にとっても利用しやすいと言えるのではないでしょうか。
日本でも、空の旅はLCC(格安航空会社)の利用が当たり前になってきています。思えばアジアで、そのLCCのパイオニアとも言えるのがマレーシアで誕生したエアアジア(AirAsia)でした。その路線網はマレーシア国内だけでなく他国にまで広がり、アジアのハブと言っていい程の充実ぶりです。そして、今では何社も就航しているLCCや日本以上に充実しているバス網を加えれば、国内移動が容易にできます。その移動費の安さ、便利さ、さらには隣国シンガポールと比べても格安と感じる滞在費のお得さが、冒頭でも触れた日本人の老後の移住先人気に繋がっているのではないでしょうか。
それでも日本人の旅行先としては、タイ、インドネシア、シンガポールなどの近隣諸国と比較すると、実績、知名度ともまだまだです。逆に言うと、あまり日本人が溢れていないので魅力的とも言えるのではないでしょうか。そう、今がマレーシアへの旅行のチャンスなのかもしれません。

(おわり)

『細い目』

マレーシアの映画事情 [1/2]

2017/01/01

マレーシアの映画事情

伊多波一夫(Kazuo Itaba)

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マレーシアの印象

マレーシア(Malaysia)。日本人はどんなイメージを持っているのだろうか? 私にとってのマレーシアのイメージは、世間で広く “老後の海外移住先、人気ナンバーワンの国” と言われているという事です。アンケートや報道に疑問を呈する訳ではありませんが、“本当なの?”との思いが常にあります。
私の友人、仕事関係には私同様の旅行好き、バックパッカーが多く、旅先で出会った旅人との会話も自ずと旅について、海外各地についての事が多くなります。アジアを旅する旅行者にはそれぞれの国にハマった人、何度も再訪するリピーターも多いです。でも、マレーシアにハマっている人、仕事や在住者、家族訪問以外で何度もマレーシアを訪問する人にあまり会った事がありません。せいぜいタイ(Thailand)からビザランや、シンガポール(Singapore)・タイ・インドネシア(Indonesia)への通過点として利用するくらいではないでしょうか。私自身、マレーシア入国は10回前後。多いか少ないかは微妙かもしれませんが、入国200回以上を超えるタイに比べたら明らかに少ないです。
初めてマレーシアに入ったのは26年前、やはりタイからシンガポールに抜ける途中でした。個性的でパンチの効いたタイ料理の後では、マレーシア料理は物足りなく、洗練されたシンガポール料理に比べても印象は薄かったです。そんな“なんだかな”印象をずっと持ち続けておりました。
そして、先日、2週間ボルネオ島(Borneo Island )とクアラルンプール(Kuala Lumpur)を旅行して気づきました。若い時には退屈な国だなぁと思っていたマレーシアの印象が、もはや初老と言っても良い年齢になった今、“悪くないじゃん、マレーシア。なかなか良いかも”と思い始めています。
確かに,老後の生活の地として人気なのも納得できました。若い時は切り詰めるだけ切り詰めて旅行をしていましたが、ホテル、食事が、ある程度のレベルの高さをもつ旅の予算が組めるようになると、マレーシアの安全性、ホテル・食事のクオリティが嬉しく感じられるようになりました。
ご存知のようにマレーシアはマレー半島と、サラワク州(Sarawak State)、サバ州(Sabah State)からなるボルネオ島北部エリアから構成される国家です。今回、初めてボルネオ島を回りましたが、もはや違う国家、文化圏とさえ思われました。マレー半島も相当のんびりしていますが、それ以上かと。そして、半島以上にイスラム教の制約もあります。
特にアルコールに関しては、サバ州の州都コタキナバル(Kota Kinabalu)では若干緩いですが、東端のサンダカン(Sandakan)はコンビニも含めアルコール飲料を見つけることは困難でした。もちろん飲食店でも同様です。ようやくありつけたビールは、街一番の外資系ホテルの日本料理レストランでした。マレー半島を旅行するなら、そんなことを感じなくても済むのでしょうが。アルコールが生き甲斐の私のような吞助には大変でした。

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マレーシア映画って

アジア映画にどっぷり嵌まっている私ですが、マレーシア映画となるとあまり情報量もありません。80年代以降、韓国映画、台湾映画、ベトナム映画、タイ映画と日本での公開作品が増えていますが、マレーシア映画は地味だったと言わざるを得ませんでした。ただ、アジア映画自体の評価が高まる中、日本各地で開催される映画祭でアジア映画特集がトレンドのようになり、アジア映画自体をメイン企画に据えた映画祭まで開催されるようになりました。そうなってくると、どうしてもアジア各国から作品を揃える必要があり、マレーシア映画も徐々に公開されるようになりました。ただ評価となると、なかなか難しい状況が続きましたが。
そんなマレーシア映画にも、2000年代に国際的な評価を得る作品、監督が現れてきました。そのひとりが、2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭(Yamagata International Documentary Film Festival)で特別賞New Asian Currentsを受賞したアミール・ムハマド(Amir Muhammad)監督のドキュメンタリー作品「ビッグ・ドリアン(The Big Durian)」です。この作品は翌年バンクーバー国際映画祭(Vancouver International Film Festival)で特別賞Dragons and Tigers Awardも受賞しました。
そして2005年の第18回東京国際映画祭 (Tokyo International Film Festival)のアジアの風(Winds of Asia)部門では、後にマレーシア映画の代名詞ともなるヤスミン・アハマド(Yasmin Ahmad)監督の「細い目(Sepet)」<2004年>が上映され、多くの映画関係者、映画ファンをマレーシア映画に目を向けさせる事になりました。この作品は、マレーシアの映画祭でも多くの賞を受賞するという栄誉にも輝いています。ただ残念なのは、2009年にヤスミン・アハマド監督が51歳で亡くなられたことです。彼女の残した作品の数は多くありませんが、日本の映画ファンに強い印象を残してくれました。
そして、マレーシア映画は他のアジア諸国の映画と同じように、海外留学組、テレビやコマーシャル映像作家などの映画監督が活躍するなど、国内市場はもとより海外での知名度も上がってきています。

(つづきは1月15日にアップ予定です)

「ビッグ・ドリアン」

https://www.youtube.com/watch?v=kkHBgu4WQXA

エドモンド楊とマレーシア映画

2016/06/07

#1

そいつと初めて会ったのは、もう7年前になる。より正確には、そいつのショートフィルムと初めて会ったのはと、言い換えたほうがよいか──。女性のモノローグが流れる背景で映像もまた流れ、日本を起点にしながらマレーシア、インド……と、まるで脈絡などなかったようにしてスクリーンを流れてゆく映像は、もしそれが動画でなく静止画だったなら、クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』を想起させたかもしれない。

言葉によって説明しようのない想い、言語によって置き換えることのできない思惟のざわめき、表現されることを訴えつづける希求……そうしたものが、スクリーンからはらはらとこぼれでて、ぼくは思わず、それらすべてを両手で受けとめようとする。

けれど、それらはいつの間にかぼくのあいだをすり抜けて、次の旅先を目指して流れつづけてゆく。まるで、永遠に流れつづけること、永遠に到達しないことに意味があるかのように……。そいつの『イメージのはかなさ』(Fleeting Images)は、まるでそんな作品だった。作者は、マレーシア人で、エドモンド楊という。その第一印象は、こいつがそうなのか──と。

エドモンドの映画『イメージのはかなさ』は、むしろ「つかの間のイメージ」と呼んだほうがよいだろう。1秒ごと、一瞬ごと、時間の流れのまにまに流れ去ってゆくイメージは、ぼくたちが生きている一瞬のまたたきにも似て、とらえどころがなく、行き当たりばったりで、到着点すら知らない。ひとつの手紙にこめられたその刹那な思いは、宛名も知らないままにぼくたちの目の前に差し出され、その手紙を読む声だけが、遠い木霊となりながら、時間の流れにあらがってぼくたちの耳に響きつづける。

誰に宛てられたものなのか、それすら知らせられないまま、女性のモノローグはまるで言葉のつぶのようになって流れゆく時間のなかで結晶化し、ぼくたちの記憶の断片を呼び覚ましながら、フイっと逃げ去ってゆく。

いくつかの手紙がモノローグの響きだけになって時間と空間のあわいに消え去ってゆくあいだ、ぼくたちはじっと静かに、次の頁が繰られるのを待っているのだろう……。

そう、彼の映画を見ることは、まるで一冊の書物を聴くのにも似て、繰り返される経験のようなのだ。大事なのは、そこになにかの意味を固定させることではない。そうではなくて、留められることのない儚さなの揺らぎを、そのまま受けとめつづけること。その行為を繰り返しつづけることによって、その時間を生き直しつづけること……。そんなことを、この男が描いたのか──。

 

目の前にいる彼は、まるで映画青年ぽくも、からきし文学青年ぽくもなく、浅黒い顔にくったくのない笑顔を浮かべて人なつこく、憎めないやつという言葉がそのまま人のかたちをとったかのようだった。それまで、マレーシアの人ときちんと対峙したことなどなかったぼくにとっては初めてのマレーシア人の友人であり、漠然とその中国系の名前から中華系マレーシアンを予想していた浅はかな思惑から大きく外れる彼のたたずまいに、ぼく自身はむしろ、居ずまいを正す。作者への敬意とともに。そして、マレーシアから日本を経て生まれたこのショートフィルムの不意打ちが、ぼくの心を打ちつづけることになるのだ。それからだった、マレーシア映画というものを考えるようになったのは──。

日本では、ヤスミン・アハマドの名前が突出して知られてはいるが、マレーシア映画の背景にあるものと、その現在、そしてこれからについて、どれほどのことが知られているものか……。エドモンドはあるインタヴューでこんなことを語っている──「マレーシアという国は、複数の民族と文化から成り立っている国です。私たちは皆、それぞれに異なる生活様式を持っているのです。ですから、私の場合は、マレーシア系中国人ですので、映画の登場人物たちは皆、北京語で話していますけれども、私たちの映画における時間の流れや視覚的な表現方法、そして、そこに息づいている感情といったものは、台湾映画や香港映画、中国映画で見られるものとは相当異なっているのではないかと思います」(「OUTSIDE IN TOKYO」 )

 

多民族国家、マレーシア。中国系を中心にして構成されてはいても、その料理が独自の発展を遂げてきたように、映画もまた、さまざまな感性とテイストをのみ込みながらかたちづくられてきた。だからこそ、彼、エドモンドの映画がぼくたち自身と異なっているとは思わない。日本からマレーシアを経てインドへ、回廊を抜けるようにして連なってゆくつかの間の映像=イメージの欠片たちは、耳をくすぐりながら過ぎてゆくモノローグとあいまって、かつて知っていたかもしれない懐かしい時間と空間へと、ぼくたちを連れ戻す。それは、いまであってももはやいまではない時間、かつてであってももはやかつてではない空間、かすかな記憶と予感のようなものが混じり合ったもの……とでも。そう、さまざまな物ごとが寄り集まりながらももういちど解きほぐされていったなにか……。

日本からマレーシアを抜けてインドへ、空間と時間を超えて記憶はつらなり、印象は揺らめきながら通じ合う。マレーシアという、さまざまな時間と文化が行き来するトポスを経ることによって醸し出されたなにか。それゆえにこそ、ある豊かさが醸成され、ぼくたちと変わりない人物たちが、ぼくたちと変わりない人生を生き始めるのだ。彼、エドモンド楊の映画のなかで──。

#2

さて、ここでマレーシア映画について……などと書けるほどに、ぼく自身、マレーシアの映画事情に通暁しているわけではない。ごく一般的な知識をもち合せているにすぎない。のだが、エドモンド楊との出会いが、それを少し変えてくれたことは確かだった。マレーシア映画界を代表するヤスミン・アハマドが、エドモンドと知り合って、そのしばらくのちに亡くなり(2009年の夏のこと)、その後、彼女を追悼する特集上映があちこちで組まれた。当時の朝日新聞の追悼記事を紹介しておこう。

「東南アジア映画の新潮流をリードしてきたマレーシアの女性監督ヤスミン・アハマドが先月25日に51歳で脳出血で死亡した。多民族国家の現実をユーモアと風刺を交えて描いた作品は、日本でも様々な映画祭で上映され人気を集めた。日本ロケもある新作にとりかかる矢先の急逝だった。英国の大学を卒業後、マレーシアの広告会社のCMディレクターに。異文化理解や弱者支援などのメッセージCMで高い評価を得た。03年の初長編『ラブン』で、映画界に進出。少女オーキッドを主人公とする自伝的連作で国際的な注目を浴び、マレーシアやシンガポールの若手監督のサポートにも尽力した。自称『語り部』。誰にでもわかる娯楽性を大切にした。一方で、マレー系、中国系、インド系が共存するマレーシアの文化間対立や差別構造にも鋭く切り込み、本国では上映中止の危機にもたびたび直面した。マレー系の少女と華人の少年の初恋を描いた第2作『細い目』(04年)で東京国際映画祭(TIFF)の最優秀アジア映画賞を受賞。亡くなる前の自身のブログでは、TIFFなどでの評価が活動を続ける支えになったと述懐していた。母方の祖母は日本人。最も好きな映画に『男はつらいよ』を挙げた。次回作『ワスレナグサ』は祖母をモデルに自らのルーツを探る内容で、10月には石川県などで撮影を予定していた」(朝日新聞2009年8月9日「マレーシア映画界の名匠、ヤスミン・アハマド監督逝く」)

マレーシア・ニューウェイヴを牽引してきたとされる彼女の死は、だが、マレーシア映画という枠組みを再確認させることになったのではないだろうか。ヤスミン・アハマドという存在の不在を埋めるべく、新たな才能、新たな逸才が揺籃期を早々に切り上げ、次々と胎動し始めたように思えるからだ。

東京国際映画祭や東京フィルメックス、あるいはそのほかの映画祭でも継続的単発的にそうした新たなマレーシア映画は紹介されてゆき、ピート・テオ(音楽プロデューサーで映画プロデューサーで俳優でもある多彩な人物)、ジェイムズ・リー(マレーシア・インディペンデント映画の大立者)、リサ・スリハニ(マレーシア映画界の〈いま〉を代表する女優)ら、若きマレーシアンな才能たちについて、次第に知られるようになっていった(ごく一部でかもしれないが……)。

やがて、2013年、2015年と、マレーシア映画の魅力を伝える特集上映「シネ・マーレシア2013★マレーシア映画の現在」および「マレーシア映画ウィーク」も開催され、マレーシア映画の新しい動きが確実に存在しているということ、そしてそこから、なにかが生まれでようとしているさざめきが確実に聴き取れる時代となってきた。さて、話をエドモンド楊に戻そう。

初めて彼の作品『イメージのはかなさ』に接してから、ぼくは意識してエドモンド作品を追いかけるようになった。所属していた早稲田大学の安藤紘平ゼミをバックボーンとして、エドモンドは次々を作品を送り出していたからだ。

『Kingyo(金魚)』(2009年、ヴェネツィア映画祭に出品)、『避けられない事』『避けられる事』(ともに2010年)、『冬の断片』(2012年)……。そのいずれもが、少しずつスタイルも異なり、主題も異なってゆくエドモンド映画。彼は、タルコフスキーやエドワード・ヤン、是枝裕和といった監督の名を、影響を受けた人物として挙げているが、それ以上に好きなのは川端康成だと、安藤紘平さんからうかがった。それを証すかのような、『Kingyo』の場所と時間を超えた味わいのなかに、日本という殻からは生まれてこない、さまざまな文化と複数の様式に支えられたエドモンド映画の、さらにはマレーシアの新たな映画の魅力が醸成され、ほかのどの場所と時間からも生まれてはこないだろうなにかを、真っすぐに訴えているのを感じとる。それは、日本でもなく、マレーシアでもなく、ただひとつの固有名詞によって語られ、そこから生まれ落ちるものではない。アジアという枠組、雑多な文化がざわめきをあげながらぶつかり合い、反応し合う場と時間からしか、産声をあげることなどできないものだ。エドモンド楊の映画は、そこへと目を開かせてくれると同時に、そのまん中でいまもつねに流れづづけている──。

#追記

エドモンド楊の処女長編『破裂するドリアンの河の記憶』(2014年)は、彼自身がその源流を追いかけた作品でもある。必見。