コラム・ミャンマーColumn Myanmar

ミャンマーにおけるショートフィルムの現状2

2016/10/01

2011年、ミャンマーでワッタン映画祭が開催されました。この映画祭で上映される作品は、全て30分未満のショートフィルムやショートドキュメンタリーで、ヤンゴンで一般向けに公開されます。通常、ミャンマーの映画館ではショートフィルムは上映されず、ミャンマーのテレビ番組でも独立系ショートフィルムが放送されることはありません。そのためワッタン映画祭は、映画制作者が自分の作品を観客に披露するための主要な場となりました。現在、ミャンマーではワッタン映画祭を含む2つの大きな映画祭があります。今年で4年目を迎えるもう1つの映画祭、Human Rights Human Dignity International Film Festival(人権と人間の尊厳の映画祭)は、その名前が示すとおり、人権問題を扱った映画を中心に取り上げています。

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ミャンマー国内でショートフィルムやドキュメンタリーを制作する方法は2つあります。1つ目は、映画制作のワークショップに参加する方法です。生徒はワークショップのトレーニング期間中や最後に、ドキュメンタリーかショートフィルムを作ってトレーニングを終わらせます。2つ目は個人融資を受ける方法です。通常、監督や製作者がプロジェクトや、撮影カメラマン、録音技術者、編集者などの映画制作に必要なクルーのための予算を用意します。どちらにしても、映画制作に関わる制作者やクルーの利益はほとんど、もしくは全くありません。彼らにとって大切な目標は、国内もしくは国際映画祭の観客の前で上映する作品を完成させることです。ショートフィルム制作者の中には、いつか長編映画を作り、もっと多くの観客を動員したいという野望を持つ者もいます。そんな彼らにとっては、ショートフィルムの制作過程はトレーニングの一環にすぎません。しかし、他の制作者にとってはショートフィルムを作ること自体が最終目標となっています。

 

商業目的で国内の映画館で上映されることのないショートフィルムを制作する利点は、長編映画の場合は必ず受けなければいけない厳しい検閲が不要なことです。長編映画では脚本の段階から検閲が始まります。そして、脚本が検閲を通らなければ長編映画を制作することはできません。ショートフィルムでは、このステップを飛ばすことができます。検閲を受けるのは、映画を作り終え国内の映画祭で上映する準備が整った時だけです。つまり、若い映画制作者にとっては、バラエティに富んだストーリーやテーマを扱うことが可能になります。また、検閲で上映許可が下りなかったとしても、国際映画祭であれば上映することができます。

 

若い映画制作者の多くが、ドキュメンタリー映画制作の教育を受けてきました。そのため、彼らの作品はフィクション映画であっても、ストーリーの選び方から映像の見せ方まで、ドキュメンタリー映画の美学を包含しています。例として、2016年のショートショート フィルムフェスティバルで上映された、社会正義をテーマにしたミャンマーのショートフィルム、『ミッシング』、『学校へ』の2作品が挙げられます。『ミッシング』は、ある政治犯とその家族の物語です。『学校へ』はミャンマーの地方に住む人々の貧困に焦点を当てています。この2作品は両方とも映画制作のワークショップで制作され、プロの俳優は出演していません。映画の質は国際的な標準レベルに達していないものの、ミャンマー国内の映画館で上映されている商業映画よりもずっと優れています。

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ミャンマーのショートフィルムには、改善の余地が大いに残されています。そして当然、その改善のサポートや助けになる方法もたくさんあります。その1つは、国内の映画祭を毎年続け、映画制作者が作品を披露できる場所を作ることです。また、他の国と協力し、若い映画制作者にトレーニングの場を与えて彼らの才能を育んだり、共同制作プロジェクトを設けて映画制作の知識を交換したりする方法もあります。こうすることで、ミャンマーのショートフィルムの観客は、国内だけでなく国際的にも増えていくでしょう。

 

ミャンマー映画において、ショートフィルムの歴史は長くないでしょう。おそらく映画教育やショートフィルムの制作に対する支援がもっと必要です。しかし、ショートフィルムを通して物語を伝えようとする若い映画制作者の関心やエネルギーが盛り上がり、現在、ミャンマーはショートフィルムの制作という視点において、すばらしい時代を迎えています。私の親友の映画監督、サイ・コン・ハンは最高のショートフィルムを作りたいという情熱を次のように語ります。「自分自身が映画館で見たいと思う映画を作るんだ」ミャンマーの政治の歴史や映画業界の現状を鑑みると、ミャンマーでショートフィルムを作るということは、政治的かつ芸術的な主張を行うということを意味するのです。

ミャンマーにおけるショートフィルムの現状

2016/09/15

ミャンマーで、ショートフィルムが芸術的な試みとして制作されるようになったのは比較的最近のことです。長編映画であれば1950年代から始まる豊かな歴史がありますが、ショートフィルムとなると語れるような歴史はほとんどありません。最近になって、20代から30代の若い世代の映画制作者が中心となり、芸術的な表現を行う手段としてショートフィルムを作る試みが始まりました。若い映画制作者の間でショートフィルムへの新たな情熱が芽生えた背景には、重要な役割を果たす2つの要因があります。それは、映画制作の自由を奪ったミャンマーの政治情勢の変化と、現在のミャンマーの商業映画の質に対する大きな不満です。

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1つ目の要因として、政治が映画業界に果たしてきた役割を簡単に振り返って見ましょう。1950年代はミャンマー映画の最盛期だと言われていました。国内のいたる所に独立型の映画館があり、当時の映画制作者によってあらゆるジャンルの作品が作られ、そこで上映されていました。映画鑑賞は人気の大衆娯楽だったのです。しかし、1962年に軍が国の権力を掌握したことをきっかけに、繁栄していた映画文化は暗黒の時代へと進んでゆきます。軍事政権によって数多くの映画館が差し押さえられ、全ての映画に厳しい検閲が課されました。こうして50年に及ぶミャンマー映画の衰退が始まります。これが原因となって2つ目の要因である、現在のミャンマーの商業映画の質という問題が生じました。

当時、ミャンマー映画を見ようと映画館に足を運ぶと、安っぽいメロドラマのような作品しか上映されていませんでした。貧弱なストーリーラインや先の読めるプロット、記憶に残らないキャラクターなどで構成され、創造性の乏しい撮影技術、おおげさな演技で作品ができあがっていました。検閲で脚本の内容を制限されたのも映画の質が下がった原因の一つですが、商業映画界にも責任の一端があります。数十年の間に、製作者や監督は商業映画界の中心的な立場にいることに甘んじるようになってきたのです。彼らは思考や創造性をほとんど働かせず、利益を生むために、いかに短期間で映画を作るかということに関心を寄せました。しかし、ミャンマー、ハリウッド、国際社会にいる若い世代の映画ファンにとって、彼らの時間や財産を費やす価値がある唯一の娯楽は映画です。

2011年、ミャンマー政府は民主化への道を歩み始めます。報道機関やメディアに課せられてきた厳しい規制が50年ぶりに緩みました。ミャンマーで起こった歴史的な出来事を報道するために外国メディアが国内に押し寄せます。かつての警察国家が、突如、路上での写真撮影やビデオ撮影に寛容になりました。これが、新しい世代の映画制作者が政治的で芸術的な表現を映画で形にする、という発想を得たターニングポイントとなったのです。

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新しい世代の映画制作者が学ぶ正式な教育システムはありません。彼らの多くは外国人映像ジャーナリストの仲介や通訳として働いてきました。ストーリーテリングや映像撮影技術は外国ジャーナリストと接する中で学んだのです。他には映画制作のワークショップに参加した者もいました。これらのワークショップの資金の大半は、外国の大使館やNGOの援助によるものです。ここでは、強い人権と社会正義を核に据えたリアルな生活を伝えるドキュメンタリー映画の制作を中心に扱っていました。軍の支配下にあったミャンマーの暗い歴史を考えれば、ドキュメンタリーを通して伝える物語は尽きることがありません。最初にドキュメンタリー制作へと向けられた関心は、今後、フィクションのショートフィルム制作の分野へと広がっていくでしょう。

「ミャンマー」 ちょっと前までは、ミャンマー旅行も大変

2016/09/01

Column by 長島文雄(Fumio Nagashima)

さて、以前は、ミャンマーの観光ビザを取得するのはそれなりに大変でした。ちょっと昔には、申請時に旅行行程表を添付しなければなりませんでした。まあ、入国してしまえば、行程通りに行動しなくても問題はなかったのですが。また、申請書類の勤務先名欄に「○○出版社」などと書くと、追加の書類が必要であったり何かと手続きが面倒になりました。場合によっては、ビザが下りないこともあったかもしれません。というのは、当時の政府がマスコミの入国を嫌ったからです。たとえ勤務先が子供用の童話だけしか出版していない会社であっても、マスコミとみなされたのです。マスコミ関係者だとみなされると、「帰国後一切、私はミャンマー国内のことに関して報道する等のことは致しません」という内容の誓約書なるものも書かされたのです。2016年になると、ビザ申請の手続きがかなり簡略化したようです。これも、民主化した恩恵の一つなのかもしれません。

軍事政権時代には、ミャンマー全土を外国人が自由に旅行をすることはできませんでした。現在でも、一部地域はできませんが。ある時、私がたまたまミャンマー滞在中に、ビッグ・ニュースが飛び込んできたのです。マンダレー(Mandalay)よりも北側にある北部のいくつかの都市へも行けるようになった、とのことだったのです。しかも、寝台列車に乗ることもできるというのです。「外国人が北部の町へ寝台列車に乗って行くことができる」というのは、すごい話でした。私には時間があまりなかったのですが、予定していたスケジュールを変更して行くことにしたのです。

どの町へ行くか迷いましたが、ミッチーナ(Myitkyina)を選びました。ここは、以前は首狩り族であったという話もあるカチン(Kachin)族の人たちが多く住む場所です。ちなみに、現在では、多くのカチン族の人たちはキリスト教徒です。

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マンダレーで知り合った英語が話せる車の運転手を通訳として雇い、寝台列車でマンダレーからミッチーナへ行くことにしました。まずは、本当に外国人でも列車に乗れるのか駅へ確認に行きました。チケットは問題なく買うことができひと安心。ミャンマーの鉄道には現地の人よりも高い外国人料金の設定があるのですが、なぜか現地人料金で売ってくれたのです。乗ってからトラブルになるのが嫌でしたので、私は日本人であるという事を窓口の人に確認したのですが金額は変わりませんでした。外国人が乗ることができるようになった直後でしたので、まだ外国人料金の設定が間に合わなかったのでしょうか?ところで、窓口の説明では、「ミッチーナまでの列車の所要時間は、予定では24時間。ですが、いつ着くかは分からない」とのことでした。なんとスリルのある鉄道なのでしょう。

買ったチケットは料金が高い高級な方の寝台車のものです。二人用のコンパートメント(個室)になっていました。シートは、ボロボロで穴があき放題です。出発前に車掌が検札に来ました。この車掌さん英語を少し話すことができ、私が外国人だと分かり別れ際に言った言葉が「Never Give Up(決してあきらめるな)」でした。つまり、これは、「頑張ってミッチーナまで乗ってくださいね」という意味です。その理由は、乗ってみて分かりましたが。

列車は、ほぼ定刻に発車しました。発車前には、通訳から言われたようにロウソクを買っておきました。なぜかって? この列車の車内照明は、自家発電でまかなわれているのです。つまり、列車が走行していないと照明がつかないのです。たとえ走行していたとしても、照明はかなり暗かったですが。もちろん、エアコンは付いていません。それと、車掌からひとつ注意を受けました。寝る時は、必ず窓を閉めるようにとのことだったのです。列車は低速で走るので、窓を開けておくと泥棒が入ってくる可能性があるのだとか。この当時の車両がまだ走っているかどうかは分かりませんが、とてもおもしろい列車でした。

さて、列車は、事故等で停まることなく順調に走っていました。ですが、私にはどこを走っているのかは分かりません。途中の駅にある駅名表示は、ミャンマー語で書かれているので読めないのです。また、列車に食堂車はありません。駅に着いた時に列車の窓際まで寄ってくる売り子から食べ物を購入するのです。ほとんどが見たこともない変わった物ばかりです。なにせ、ここは少数民族地帯ですので。そして列車は、無事終点のミッチーナに着きました。所要時間は予定では24時間だったのですが、実際には約36時間でした。ちなみに、帰りはいつ着くか分からないと困るので飛行機で戻りました。

 

○ミャンマーと映画

ミャンマーにも、もちろん映画館があります。私はまだ一度も映画館へ入ったことがありませんが、ミャンマーの作品、インドの作品(ミャンマーには、インド系の人が多くいます)、アメリカなどの外国映画が上映されているようです。機会があれば、ミャンマーで映画も観てみたいですね。

日本でも劇場公開された、ミャンマーの民主化運動の主導者であるアウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)の半生を描いた「The Lady アウンサンスーチー 引き裂かれた愛」(The Lady)<2011年/フランス、イギリス作品>という作品があります。撮影は、ミャンマーでは行われていませんが、時の人ともいえるアウンサンスーチー氏のことが分かりやすく描かれています。ちなみに、彼女は日本に滞在したこともあり、どの程度だかわからないですが日本語も話すことができるそうです。

 

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映画『The Lady ひき裂かれた愛』予告編

仏教徒が多い国

2016/08/19

Column by 長島文雄(Fumio Nagashima)

今、ミャンマーは民主化が進みそうな気配があり、世界中から注目を浴びています。正式名称は「ミャンマー連邦共和国(Republic of the Union of Myanmar)」。以前の名前を「ビルマ連邦社会主義共和国(Socialist Republic of the Union of Burma)」と言いました。竹山道雄が著した物語「ビルマの竪琴」のビルマです。ある程度の年齢の方にとっては、こちらの名前の方がなじみがあると思います。

 

ミャンマーは、まれに見る多くの民族で構成されている国家です。その数は、全部で130を超えると言われています。特に、国境周辺には、多くの種族の少数民族の人たちが住んでいます。ある意味、この多くの少数民族が現在の国家の最大の問題点ともなっています。ここでは詳細は説明しませんが、この民族問題をかなり複雑化させたのは第二次世界大戦でした。

民族のるつぼのような国なのですが、ミャンマーは仏教国です。宗教の構成比率は、90%以上が仏教徒だと言われています。仏教といっても、上座部仏教(小乗仏教)なのです。日本もある意味仏教国なのですが、日本は大乗仏教ですので内容が少々違います。

A299-24日本人も多く訪れるお隣のタイ王国も仏教国で、上座部仏教です。では、ミャンマーはタイと同じようなのかというと、これまた少々違います。観光客としての立場から感じる大きな違いは、寺院へ行った時に感じます。タイでは、寺院の本堂へ入る時などに靴を脱ぎますよね。ミャンマーでは、基本的に寺院の敷地内へ入る時に靴を脱がなければなりません。つまり、寺院の門をくぐって本堂や仏塔などでお参りするためには、裸足で地面を歩いて行くことになるのです。

また、タイでは、本堂内にある仏像などに金箔を張り付けるため競って仏像に触れています。しかし、ミャンマーでは、ほとんどの場合に女性が仏像に触れることはできないのです。また、女性は、仏像からの一定距離内に近寄れないという場合もあります。

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治安のいいミャンマー

ミャンマーへ行くというと、周囲の友人は「そんな国へ行って大丈夫なの?」と言ってくることがとても多いです。つい先日の民主化選挙が行われる前までは、ミャンマーは完全な軍事政権でしたので。多くの人は、「軍事政権」という言葉から勝手に「危ない」と想像してしまっているのです。実際に行ってみると分かるのですが、治安はとてもいいのです。おそらく、治安の良さは、東南アジアでトップ・クラスです。あくまで個人的な印象ですが、日本よりも治安はいいです。それは、軍事政権が、完全に治安をコントロールできていたからだと思います。ただし、これは国の中心部の話で、少数民族との問題を抱える周辺部ではそうはいきません。ちょっとおもしろかったのは、当時の首都ヤンゴン(Yangon)(現在の首都はネーピードー(Naypyidaw))の政府関係のビルを警備している兵士は、旧式?のライフル銃を持っていました。ところが、遠く離れたある地方都市では、おそらく20歳にもならない少年兵士がM-16だと思われる自動小銃を持って警備していたのです。首都は旧式銃、地方は高性能銃ということです。これは、ある意味、この国の状況を語っていると言えます。

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